愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【断想集】すべてのクレタ人のための『ハンチバック』書評批判

 

(「いいえ」と私)はい(った)。

 

この国に来た者はトリリンガルにならなければ生活ができない。母語と日本語ともう一つ、日本には手話ならぬ目話があるから。日本人と日本人とのあいだでのみ交わされているであろう、まなざしによる活発なおしゃべりの言語。私はまだ人によって語順も語尾も変わるらしいこの最難関言語をうまく理解できていなくて、まなざしの文法を見よう見まねの手話で再現するかのように、言い知れぬ未知の伝達をどもっている。

 

どもり:舌の溺れ。

 

語れない者:存在の吃音。

 

労働現場と自宅のあいだにある帰宅時の彷徨的な気まぐれな逍遥の当ては二階建ての古本屋チェーンで、テカテカと世俗的に照る黄色と青の照明や店構えは安っぽくて嫌いだが、安く叩き売りされた時給制労働者のやけっぱちな夜半にはむしろふさわしく、空腹と疲労を上回る虚脱的な手持ち無沙汰の十数分を解消させるにはうってつけだ。自動ドアが開いてすぐ目に入る文芸書コーナーでは、商業的な賞が送られたらしい『ハンチバック』というオレンジ色の本が三割引きの面出しで売られており、障碍者が健常な識字者を罵倒する痛快な描写があると喧伝されていた。だが私は日本語話者限定と言っていい日本語尽くしの書店内で、何を今さらそんな程度のことで耳目を集めることがあるのかと、にわかに顎に力が入る程度の憤りを感じる。識字障害(ディスレクシア)も低学歴の文盲者も精神疾患者もいくらでもいるであろう一億人の国土にあって、障碍者の読書家批判を評価すること自体のふんぞり返りに加齢臭みたいな優越性があるではないか。小説自体は読んでないし買うつもりもないのでとやかく言えないが、言葉の出難さを言葉で批評して言葉で選評して言葉で称賛するなんて、文学者たちってどれほど無意識的な傲慢さを宿した優生人種たちであることか。

 

私は小説を書きたくない。ただちょっと唯我的言語の創造者になりたいとは思うけど。

 

誰もが母国語と家族語によるクレオール語の話者だ。

 

生まれてから一度も純粋な日本語でしか話したことのない人がいるとしたら、それは日本語ではない。