もしも
遠くから
私がやってきたら
すこしは
真似ることができるだろうか
(「帰り道」)
知らない人によりかかって
その人を
知っている人のようにおもいたい
(「その人」)
どこからでも見えるが
私だけが見えない
(「男」)
死んだ人が
生きている真似をしているようだ
(「旅館」)
私は市場で見た
知らない男に似ている
(「猫」)
ふりむくと
何かを見ている私がいた
(「一日」)
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
今年撮影した写真に、髙木敏次の詩集『傍らの男』(思潮社 2011年)の言葉を失敬し、写真詩として掲載します。『ひきポス』の現代詩特集でも取り上げましたが、私にとって『傍らの男』は近年にない特別な感銘を受けた詩集です。
「人間」という言葉はかつて「じんかん」と読み、世の中を意味したといいますが、髙木敏次は「私」が自分自身から離人し、自分と他のものとの「あいだ」の喪失した境地をとらえます。椅子や机を使う毎日の自分が不定状態になっており、市場や街角を歩く行旅においても、「人間」の結び目がほつれてブラブラしてしまっている。しかもそれは特定の災厄ではなく、デスクワークや休眠時などの何気ない場面で起きてしまう。そこに「人間」の所在が失われる深刻さと、加えて「どうしようもないのでそのままにしている」諦観とがある。平凡な日常がすでに危機的であるところに、際立った現代性があるように思います。
吉増剛造や高橋睦朗等の前衛的な詩風をのぞけば、個人的には2010年代で最重要の日本語詩として読みました。
関連記事:写真 カテゴリーの記事一覧 - 愛さないことにかけては世界の方が上手
ご覧いただきありがとうございました。