愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【写真詩】髙木敏次『傍らの男』付

 

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   もしも
   遠くから
   私がやってきたら
   すこしは
   真似ることができるだろうか
   (「帰り道」)

 

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   知らない人によりかかって
   その人を
   知っている人のようにおもいたい
   (「その人」)

 

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   どこからでも見えるが
   私だけが見えない
   (「男」)

 

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   死んだ人が
   生きている真似をしているようだ
   (「旅館」)

 

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   私は市場で見た
   知らない男に似ている
   (「猫」)

 

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   ふりむくと
   何かを見ている私がいた
   (「一日」)

 

 

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 今年撮影した写真に、髙木敏次の詩集『傍らの男』(思潮社 2011年)の言葉を失敬し、写真詩として掲載します。『ひきポス』の現代詩特集でも取り上げましたが、私にとって『傍らの男』は近年にない特別な感銘を受けた詩集です。
 「人間」という言葉はかつて「じんかん」と読み、世の中を意味したといいますが、髙木敏次は「私」が自分自身から離人し、自分と他のものとの「あいだ」の喪失した境地をとらえます。椅子や机を使う毎日の自分が不定状態になっており、市場や街角を歩く行旅においても、「人間」の結び目がほつれてブラブラしてしまっている。しかもそれは特定の災厄ではなく、デスクワークや休眠時などの何気ない場面で起きてしまう。そこに「人間」の所在が失われる深刻さと、加えて「どうしようもないのでそのままにしている」諦観とがある。平凡な日常がすでに危機的であるところに、際立った現代性があるように思います。
 吉増剛造や高橋睦朗等の前衛的な詩風をのぞけば、個人的には2010年代で最重要の日本語詩として読みました。

 

 

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  ご覧いただきありがとうございました。