愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【断想集】すべてのクレタ人のための救命ボート乗船案内

 

「はい」(ではなく、「いいえ」と私は言った)。(「い」、「い」、「え」と私は言った(はずだ)。「い」と「え」の母音を続けて発話して相手の鼓膜まで届けばいいだけ(のはず)の言葉を、私は言った(はずだ)。)

 

クレタ島ではもっとも嘘をつくことがない者、つまり語ることのできない先天性の唖が人々の尊敬を集めていた。

 

「私の本名は手話なのです」彼女はそういって右手で大きな半円を描き、左手で「凹」の字型に似た動作をした。私は彼女に、あなたの名前は間違いなく世界でもっとも美しい名前だ、とほとんど愛を告げるような熱烈な手話で断言した。その直後に目が覚めて、書類に醜悪な自名を記入する一日のために起き上がらねばならなかった。

 

私には読むことのできない、クレタ島点字で書かれた分厚い偽書

 

この世のすべての言葉が点字ならいいのに。どこかにそんな島はないのだろうか。もしくはそんな星は。人類がまだ月面着陸したばかりの頃の時代にこの国で空想されていたタコ型の宇宙人みたいに、咽喉ではなくたくさんの触手の指先だけが発達した異星の住人がいて、私たちに発話ではなく凹凸で語りかけてくれていたなら、私たち地球人が指先のエスペラント語を発明できていたなんてことはない?

 

戦後のこの国では日本語を捨てて公用語を英語にしようという動きが知識人のなかでも現実的な切迫感を持って検討されていた。現代の安定ないし安穏な言語の地盤からすれば、彼ら改革を目論んだ学者たちは浅薄な判断だったと言わざるをえないが、母国語の放棄の内奥に、自分の言葉が自分のものでなく、世界を表象しない不全に悩んだ結果なのだとしたら、私にはその心境が理解できなくもない。自分の話し書き読む言葉が国際的にそして未来において沈みゆくほかない劣等な言語だと思えたなら、母国語そのものを別言語へと亡命させることは自国および自民族と文化を延命させる避難ボートであり、はるか異なる海洋へと脱出すべき救済へのHELPだったのはないか。その船頭の先に待つのが言葉の棄民であるにしても、今現在使っている言葉が意味の死屍累々しか生みだしていないとしたら、戦後の焼け野原の母国を捨てて新天地へと帆先を変える父親のように、その言語的亡命はただ大いなる家族のための希望的な試みではなかったか。

 

ノアの箱舟から動物たちを降ろして、代わりに世界の各言語の話者を二人一組で乗せる。困惑するつがいの動物たちを後にして出港した巨大な舟。そして人類が耳にしたことのない最初で最後の沈黙が渦巻く気まずい舟内。