どこからどこまでが理解促進で、どこからどこまでが誤解促進なのか。
有識者(?)やえらい世襲男性たちの汚染語ないし処理語がワタシに流れついてる。
被災地がカタカナになる言語的な風習があるんだったら、これからは私のことをワタシって書かないとね。
ワタシは安全だと思ってない。安全だと言われ続けていることを信じ続ける危険性があり続けていることが解決していない日常が続いている安全性についての説明がないままだから。
有識者(?)の舌先のホースから垂れ流しにされた真実の虚言は今どこの海洋を浮かんでいるのか。処理水の潮流予測のように、もしもこの浮き世にただよう流言飛語の大波小波がわかるなら、有識者(?)たちは自らの駄弁がワタシの耳管の沖合で藻屑となって浮かんでいるさまを観測できるだろうに。
有識者(?)たちにこの自覚はあるのだろうか。日本が世界に誇る綺麗で安い水道水であっても、含有する有害物質の判定を極端に厳しくすれば飲んだらアウトの危険な毒薬として禁止されるようになる。それと一緒でワタシたちが発する高濃度の意味に満ちた最高純度の言葉であっても、臣民様の耳目フィルターが察知するわずかな異邦語が違法語となってはじかれてしまう。ワタシたちはいくら語ったって聞かれることにまでたどり着けない。日本語の内海で亡命ボートさながらの漂流をしつづけて、一度は2万キロを越えて流れ着いたはずの島国の砂浜よりも遠い、あなたの耳までの数十センチの潮流にひっくり返されてしまう。
そして意味の深海で私たちの言葉は水圧に押し潰されている。千代田区の海抜1メートル地点なんかでは特にね。