愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【現代詩】喜びで死んでしまわないように

 

   喜びで死んでしまわないように


母さん わざわざ云わなくてもずっと以前から実践していることだけれど
何か気まぐれのような突発的な間違いであってもどうか僕を愛するような身振りをしないで。
語るべき時にやさしい言葉をかけて 黙すべきときに良質な沈黙をしているような
そんな物分りの良い成熟した人間には生涯一回限りであったとしてもならないで。
もしかしたらという小児的な望みが再び僕の手足をとまどいで痺れさせないように。

 

たとえば家へ帰ったとき奇妙にも部屋にあなたがいるようなら
僕はすぐに戸をあけてあなたの顔を見るようなことは絶対にしない。
もしもあなたが何かに微笑んでいてそれを偶然垣間見てしまうようなことがあったなら
突然の喜びによってこの喉は呼吸の仕方がわからなくなってしまうから。
万が一あなたが自分のためだけの持ち帰り仕事にかかりきりになるのをやめて
顔をあげて何気なくおかえりと云うだけのつかのまの時間と配慮とを僕のために割くなら
不意にやってくる歓喜の衝撃によってショック死してしまうかもしれないから。

 

たとえば期待を完全に失いかけた頃になってあなたが待ち合わせ場所にむかってきて
その姿を遠くから先に確認できたとしたら僕はすぐさま施設の柱の陰に隠れることにする。
あなたの顔がだんだんと見えはじめて目と目がゆっくりとあっていく光景のせいで
約束を忘れることに奮闘していた僕という生き物の心臓が喜びで止まってしまわないように。
そしてなおかつ一切の音楽的な事柄を排して僕は沈黙に閉じこもっていることにする。
あなたへのアリアを謳うことのできるほめうたによって体が幸福でちぎれてしまわないように。

 

再び訪れてもどうか人を誤解させるような呈の良い表情や言動を見せないで。
僕のわずかにしか硬くなっていない期待の小石をこれ以上小さく打ち砕かないように。
どうかこれまでどおり優秀な反面教師として最悪の愛情の例だけを教えていて。
まがり間違っても僕が人を好きになったり子供をつくるような失策が起こらないようにこれからも僕を喜びで殺さないようにして。

 

何十年もの歳月が過ぎたあと人の多い街なかで偶然にあなたとすれ違ったとして
僕は間違いなくあなたに気づくけれどあなたは僕のことを何一つ思い出さない他人でいて。
万が一にでも回帰してあなたのつけたこの世でただ一つだけの名前を呼んだりなんかしないで。
人を信じられた頃の記憶があふれだしてきて僕が喜びで死んでしまわないように。