愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【断想】『現代ウクライナ短編集』の一部抜粋と、収録作品「天空の神秘の彼方に」に登場する人名と人称代名詞のすべてを「人間」に置き換えた一文

 

 今回は、『現代ウクライナ短編集』(群像社 2005年)の収録作、「天空の神秘の彼方」の文章の一部を改変した一文と、短い抜粋文を掲載する。
 具体的には、「アンドリイ」「フェーディル」といった人名と、「彼」「彼女」といった人称代名詞を、すべて「人間」に置き換えた。具体的には、『フェーディルはナタールカの墓で大声で泣いた。地面を掘ってナタールカの隣に自分を生きたまま埋葬してくれるようにとしきりに哀願した』という原文が、「人間は人間の墓で大声で泣いた。地面を掘って人間の隣に自分を生きたまま埋葬してくれるようにとしきりに哀願した」となる。

 

 

 

『「あなた、だれ?」けがをした口を開いてたずねた。
「人間」』
(ヴォロディーミル・ヤンチューク「十五分間の憩いのとき」 ※原文ママ

 

『人間は人間の墓で大声で泣いた。地面を掘って人間の隣に自分を生きたまま埋葬してくれるようにとしきりに哀願した。
 その夜、人間が人間と人間の夢に現れた。人間は、小さな人間が愛する人間になるのを見て、夢のなかのことなのに身震いした。人間は人間の上に身体をかがめて話はじめた。「泣かないで、大好きな人。人間たちみんなのために、朝も夜もお祈りを捧げてちょうだい。罪を犯すことだけはしないで。そんなことをしたら、人間たちはもう二度と会えなくなってしまうのよ。人間は知りたがったわね、小さな人間が、人間がたみんなになにを思い出させるために来たのかと。神様を愛して罪を犯さないように、そのことを思い出させるために来たのよ。天に昇ったあと、人はそれぞれの行いによって裁かれるのだから。それから、喜ぶことを覚えてね。喜びが病や不幸の楯になってくれるわ。喜びは神様からの贈り物。嘆きや悲しみは力を萎えさせ、魂を滅ぼすのよ。それは悪魔がよこしたものよ。人間の手助けをしてあげるわ。人間の言ったことを守ってほしいの。お祈りをしてちょうだい」
 話し終えると、昔話に出てくる神聖で馴染み深い幻影のようにかき消えた。
〔…〕
 草が生い茂り、果樹園には花が競うように咲いてる五月の夜だった。茂みではナイチンゲールが声を張りあげて歌っていた。蛙がケロケロと鳴き、雄牛が低い声で唸り、キジ鳩がけたたましく泣いていた。すべて、これまで何千回となく繰り返されてきた自然の営みだった。そして、この麗しい春の夕べに、カッコウが銀の井戸から銀の水を銀のバケツで汲み出して地上に撒いて行った。人間にも大きな柄杓で注ぎかけた。それで目が覚めた。人間は幹の裂けた菩提樹の古木にゆっくりと近づいた。魂は高貴な銀色の光を放っていた。夜の声に耳をすまして、天上の静かで喜ばしい楽の音に聴き入り、まだ体験したこのとなに深みを見つめた。そこに永遠の聖なる神秘の存在することを、いま、はっきり悟っていた。』
(カテリーナ・モートリチ「天空の神秘の彼方に」※人名と人称代名詞を改変した文)

 

『「ねえ、それで、人類の話をする?」
「ううん、」と首を振った。「人類の話は、もうしない。これからは、人生の意味についてだけ話そうよ」』
(スヴィトラーナ・ピールカロ「彼と彼女の話」 ※原文ママ

 

 


 参照文献
藤井悦子 オリガ・ホメンコ編訳 『現代ウクライナ短編集』 群像社 2005年

現代ウクライナ短編集 (群像社ライブラリー)