今回は、この一年くらいの読書中に「へー」っとなった箇所をランキング形式にして並べていく。ベスト10のうち上位にいくほど個人的な要因で選んでいるため、基本的に伝わりづらくなっている。あくまで私の読んだのが今年というだけで、出版年は無関係。適当に読み流してくれたら良い。
10位 プレスチモグラフの具体的な解説
(プレチスモグラフは、)『ゴムのなかに水銀柱の入った円柱歪みゲージで、性的刺激に対する勃起反応を測定するために用いられる。これを装着した状態では、ペニスの外周の変化は水銀柱の電気抵抗に変化を引き起こす。』(ジェシー・ベリング「なぜペニスはそんな形なのか」)
「プレスチモグラフ」とはペニスの勃起(血液量変化)測定器のことで、性的興奮の客観的指数を得られる。人前で読みづらいタイトルをもつ本書は、具体的な使用法や研究結果をあますところなく説明している。著者のジェシー・ベリングは性に関する知識をもっとも面白く紹介できる人で、中でもこの本は最高傑作と思われる。参考文献からして『国際インポテンツ研究ジャーナル』、『性役割』、『性研究ジャーナル』など並みではない。同居する女性同士の月経周期が同期する現象のことを、「マックリントック効果」ということも本書で知った。
9位 眠らない子供への殺意を隠さない米良地方の子守唄
『ねんねんころりよ おころりよ
ねんねしないと 川流す
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねしないと 墓立てる』(堀越英美『不道徳お母さん講座』)
宮崎県米良地方の子守唄で、意味内容としては、母親が赤ん坊に向かって「寝ないと殺すぞ」と歌っている。「優しいお母さん」なんて歴史はここにない。『不道徳お母さん講座』は日本の「良いお母さん」像が20世紀にできた概念であることを喝破した評論で、読むといろいろな鬱憤が発散できる。「お母さん」をあがめたい人々からすれば、焚書にしたいような内容が詰まっている労作。
8位 60年代のアメリカにもヒキコモリがいた証拠映像
『高校を卒業してから家にいる』(映画「クラム」)
本ではなく映画だが、字幕を「読んでいる」ので本作も含む。諷刺画家のロバート・クラムを取材した95年制作のドキュメンタリーで、上記はクラムの兄の発言。「1か月だけ働いた」「20年前の本を読み返している」などと述べており、これは現代でいう「ひきこもり」だ。1960~90年代のアメリカに「ひきこもり」がいた証拠映像であり、クラムの言動以上に興味深く鑑賞してしまった。
7位 シンプルな線で描かれた「人生」の詩情の深さ
『「流水で冷やしたんですか?」「はい」「水から離すと痛かったでしょう?空気に触れると痛むから」 それを聞いて、生まれてはじめて 「空気」に質量があるように感じられた。 患部に空気が触れぬよう、油を塗ってきたら よかったのだと教えられた。』(益田ミリ「今日の人生」)
エッセイマンガから。この文意以上に、益田ミリのシンプルな漫画に濃い詩情がこもっているというのが驚きだった。石垣りんや茨木のり子といった詩人たちの系譜に連なるような、生活力のある女性像が描かれている。
以下などはそのまま詩だ。
『生きている時間のほうが長い
どんなに短い人生だったとしても
生きていた時間のほうが長い』
6位 アンドロイドは〈居る〉ことができない
『すべてのデータの相関関係を調べた結果、人々が交流する際の身体の動きは驚くほど正確に一致していることが判明した。彼らの動きは、練習を重ねて技巧を尽くしたバレエと同じ程度に巧みな振り付けがなされていたのだ。しかも誰一人意識しないまま――。
一人がわずかに姿勢を変えると、それに合わせて別の一人がかすかに頭部を動かす。肘を曲げる動作が、話し手の変わるタイミングを示す。こうした「振り付け(発話と身体動作の同期)」は、例えば発話とぴたりと同期した身体動作など、個人ごとにも起きていたが、より重要なのは人々の間に起きた同期である。一人が発した言葉とジェスチャーは、グループ内に波紋を広げ、他の人々のジェスチャーを引き出すのだ。すべては何分の一秒というレベルで起き、しかもほとんどが無意識下で起きている。』(ジェレミー・ベイレンソン『VRは脳をどう変えるか?』)
アンドロイドを人間らしく見せるのは難しい。上記は人々の微細な言動を調べる実験で、スポーツの現場で使うようなハイスピードカメラを使って研究された。それによれば、アンドロイドには及びもつかない微細な動作が人々に満ちており、ただ「居る」ことのなかに複雑かつ深淵な関係がくり広げられているという。テクノロジーの発達によって、人間とは何かが明瞭になっていく。「居る」ことをめぐるスリリングなページだった。
この『VRは脳をどう変えるか?』は仮想現実の未来について書かれており、たとえばアバターについて、『今の小学生が大人になると、実際のウールのセーターよりも仮想世界のセーターに費やす金額のほうが大きくなるかもしれない』とある。充分にありえることだろうと思う。
5位 ケアの現場も会計士の目線に支配されていることへのペーソス
『何が言いたいかというと、超シンプルなことだ。
セラピーにはお金がつきやすく、ケアにはお金がつきにくい。これだ。
会計の声が持ち込む市場のロジックは、セラピーに好意的で、ケアの分は圧倒的に悪い。』(東畑開人『居るのはつらいよ』)
名著が多い「ケアをひらく」シリーズで、今年出版された1冊から。セラピーの仕事よりもケアの仕事を劣ったものと見なしてしまうニヒリズムが、世の中にも自分の内にもあると、自戒を込めて指摘している。『僕たち自身がいつもいつも会計の声を発している。僕らは日々、労働者や経営者としては生産性と効率性を追求し、消費者としてはコストパフォーマンスを計算している。』ともいう。タフなユーモアによって書かれた本だった。
4位 ナンパ術から見る「人とわかりあう」極意、もしくは「わかりあえない」なりの極意
『人と話すとき、その人が「何を言っているか」よりも、「どう話しているか」に対して冷静に注意を向けると、得られる情報の質がまったく変わってきます。』(高石宏輔「口下手で人見知りですが、誰とでもうちとける方法、ありますか?」)
著者の高石宏輔がすごい人で、高度な現代思想や身体論を用いてナンパ師の世界を描いている。『あなたは、なぜ、つながれないのか』(2015)や『声をかける』(2017)などは、かつてどのような文学作品でも描かれたことのない境地が描写されており、別格の書き手だ。何かの賞でもとれば一気に有名になる人だと思うが、フィクションでないので小説の賞にはあてはまらない。ドゥマゴ文学賞とか「わたくし、つまりNobody賞」あたりなら入りうるだろうか。注目している。
3位 犬への愛情によって教えられる人間への愛情
『あなたは運動や愛情を与えています。でも、訓練や規律による愛情は与えていない。誰かを愛するとき、私たちはそのようなしつけをきちんと行います。それが愛するということです。だから、あなたはご自分の犬を愛してはいないことになる。』〔…〕『人は「愛している」と言うが、その手つきは決して「愛している」とは伝えていない。』(「マルコム・グラッドウェル傑作選 ケチャップの謎」)
著者のグラッドウェルは、雑誌「ニューヨーカー」を代表するジャーナリスト。上記は取材先の犬の調教師が、犬に対する「愛」を定義し、飼い主に訴えている発言。飼い犬が息子を噛んでも犬を叱らないのに、息子が犬を蹴ったらそれは叱る。それは犬を真に愛しているのではないと教授しており、ささやかなで身近な例ではあるけれど、個人的に「愛」の定義を刷新させられた。アダルトチルドレンにとっての親の「過干渉」が、「愛」にあてはまらないことの説明になっている。
2位 一本の葦が「何もしてない」ことへの賛歌であることについて
植物はなぜ動かないのか(稲垣栄洋「植物はなぜ動かないのか」)
新書のタイトル。内容は植物の「固着性」による生存方法について述べているが、細々したところがなくともこの一文だけで充分発見だった。今年も事件が起きてしまったが、「ひきこもり」や障碍者は、「生産性」のない無益な者として一部から忌避されている。私自身も、「動かない」ことや「何もしない」ことは、人のあり方として根本的には肯定しがたいと思ってきた。しかし、植物や貝類などは「動かない」ことを生存の様式にしている。なんだ、悩む余地もなく生きているし生きていていいに決まっているではないか、という、これはそこらじゅうにある雑草から受ける命へのうべないの発見だった。
1位 配線用差込接続器の詳細
『通常左側が大きい。小さい方は電気が来る側であり、「ホット」と呼ばれていて、大きい穴の方が電気が帰る側であり、「コールド」と呼ばれている。』(高橋源一郎「お釈迦さま以外はみんなバカ」)
なんの話かお分かりになるだろうか。これはコンセントの説明で、正式名称は「配線用差込接続器」という。本書はNHKラジオでの高橋源一郎のブックガイドをまとめたもので、上記の解説は紹介されている中の一冊から。コンセントを見ると、たしかに左側が大きく、右側が小さい。ある作家は、民衆の理解力の低さを非難して『目を開けているにすぎない』と言ったが、私もまた『目を開けているにすぎない』ことがいかに多いか気づかされた。
これがランキングの1位かよ、と言われても仕方ないが、私には「どこから驚きを与えられるか分からない」という衝撃だった。それにしても、コンセントだぞ?Wi-FiとかIOTが理解できないというのではない。普段目にしている物理的な「配線用差込接続器」の右側の方が小さめ、なんて私の辞書になかった。本のこの箇所がなければ一生涯気づくこともなかっただろう。「ホット」と「コールド」のように、知らないままでいるもの身のまわりだけでもいくらあるのか。その途方もなさは、幼い頃に感じた未知の世界への好奇心を再起させるような、非常に読書らしい読書の交感だった。
ただそれはそれとして、この知識自体は別に役に立たないし、今回の記事を読んだ人にとって、別に有意義な時間にできたとも思わない。それでも何が知的好奇心になるかわらかないものでもあるので、本稿をここに置いておく。
読むことにも書くことにも私自身の遊びがある。公園の砂場に遊び散らかされたあとの砂山と幼児の指あとが残るように、これらは今年の遊びの名残りにあたるものだ。