愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

うってんぱらりん中村佳穂 『そのいのち』の歌詞を激しく意訳する

    《活動報告》
 雑誌『ミュージックマガジン』2019年8月号に、『トム・オブ・フィンランド』の映画評を書いた。機会があればご覧ください。

ミュージック・マガジン2019年8月号:株式会社ミュージック・マガジン
musicmagazine.jp

 そしてそれとは一切関係なく、今回は中村佳穂の『そのいのち』について取り上げる。

 


 今年に入って特に聞いた曲の一つが、中村佳穂の『そのいのち』だった。アルバム『AINOU』(2018年)に収録されており、ライブ版を以下のYouTube動画の後半で聞くことができる。


Kaho Nakamura SING US - Wasureppoi Tenshi / Sono Inochi [live ver]

 

 『そのいのち』の中で、意味のとれない歌詞が登場している。
 以下の二ヵ所だ。

はいからいきゅねんいっけんどし
うつつうだらんうってんだゆ

そのいのちちりじりじぬ
かぜすさぶぶりかえぬす

 WEB上でいくつか見られるインタビューでも語っているが、中村佳穂は言葉の厳密な意味よりも音を優先している。他の「シャロン」という曲でも、シャロンとは何かをはっきりさせておらず、そのままで聞いてほしいという旨の発言をしている。

 歌詞のわからない洋楽だってノれるし、ジャズのスウィングのようなものこそ音楽の楽しさだ。中村佳穂の音楽は自由で、歌声が言葉を凌駕しているようなものなのかもしれない。

 

 ところで私は普段、現代詩と呼ばれる奇怪なジャンルを読んでいる。現代詩は一語、一音に意味を読み込む深読みFreeな読書体験だ。それはときに専門的すぎるため、日常的な言葉の受け取り方からはなはだしくズレることがある。

 たとえば「たまご。」と書かれている時に、句読点の「。」が球状であることから、卵の形を表していることまで読むべき場合がある。「たまご,」だったらその卵が割れたことを示している、と読む読書の世界があるのだ。(そのような読み方のすべてが楽しいとはいわない。)

 そのせいか、解釈しがたい言葉に出会うと、意味を定めたくなってくる。中村佳穂だってただ聞いて楽しんでいればいいのだろうが、どうにも気になってくるのだ。言葉の受け取り方は万人に開かれているのだし、ここはちょっと私的に、現代詩風の意訳をしてみようかと思う。

 

 とはいえ、歌の歌詞ではそもそも意味がないことは珍しくない。
 たとえば2002年発表の以下のJ-POP。

おーううぇーん瞑あーらさっちゅWay a そーれー峯圓冥
おーううぇーあーれそー円ちゅーあんMo-い
   B-DASH「ちょ」(アルバム「ぽ」収録)

  文字化けではなく作詞されてこうなっているが、もはや意味なんてない。外国語に聞こえる歌い方を一貫させた曲だった。

 歌でなく詩においても、意味より音を優先した作品は多い。
 たとえば以下の二つ。

かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた
谷川俊太郎「かっぱ」)

もももももももももも
裳も藻も腿も桃も
もがきからみもぎれよぢれ
(那珂太郎「繭」)

 これらも音によって言葉が選ばれている。

 しかし、言葉である以上、意味が生じてきてしまう。音が近かったというだけで、カッパはラッパを盗んだ(かっぱらった)罪を負ってしまっている。(そしてテレビアニメの『さらざんまい』にまで影響を与えた。)言葉は意味を生みだしてしまうのだ。

 

AINOU

 本題に入ろう。
 「そのいのち」の歌詞の解釈だ。

 ここでは原詞は載せず、最後に意訳版全体を掲載する。それまではグダグダと歌詞の解釈を書いているので、飛ばして一番最後だけ読んでもいい。

 作詞には中村佳穂の他に荒木正比呂の名があり、ライブ版だと微妙に違っていたりもするが、一応公式の歌詞を順に見ていく。

 

 まず冒頭。

  あぁもう!あてのない荒野の果て。眩しい。
  あぁもう!あてのない後悔の群れ。寂しい。

 「眩しい」は、あとに出てくる「光っている」の歌詞と対応している。「あぁもう!」の歌唱は馬のいななきのようで野性的。「荒野」と「群れ」の連想から、狼やコヨーテの群れのように、「後悔の群れ」には差し迫った危険性のあるもの、というニュアンスをとることができる。

 

  はいからいきゅねんいっけんどし
  うつつうだらんうってんだゆ

 問題の箇所その1。
 重い深読みをするなら、3.11とのつながりを読むこともできなくはない。「はいから」を「はい」の肯定と「(あれ)から~」の接続詞、「きゅねん」を「九年」、「だ」・「ど」の発音は福島の方言に含まれる濁音だという解釈。
 現代アートの録音作品であれば、「はいからいきゅねんいっけんどし」からの流れを、「はい(そうです)、あれ(3.11)から9年くらいの年月が経ったんだっけ/うつうつと現(うつつ)に団欒(だんらん)を思い出したんだ」くらいまでいけなくもない。タイトルの『そのいのち』を「その息(イ)、後(ノチ)」と区切れば、死者への喪失の言葉と読むこともできる。

 だがそこまでエッジを効かせる必要もないので、それ以外で日本語として解釈していく。
 一行目は「はい」を肯定、「から」を接続詞、「どし」を年などとする。
 二行目はたとえば「うつつ」=「現(うつつ)」、「うだらん」=「くだらん」。
 「うってんだ」を拡大解釈で「(くだらんことをして)油を売ってんだ」と読みたい。

 最後が「~(うってんだ)ゆ」で終わっている。謎の助動詞だが、「見ゆ」「聞こゆ」など古文になら「~ゆ」で終わる言い回しがある。しかし現代の曲で、中村佳穂のバックボーンを考えると、むしろ英語の「You(ユー)」=お前、と読むのはどうか。特に自分自身への「お前」という語りかけとしてとる。

 

 少し飛ばして次の箇所。

   最後のがキまったよね!
   QUEEN SING A、QUE IN QUE IN QUE IN QUE IN!

 「キまった」は、歌詞の中で初めてはっきりと登場する過去形。「決まった」ではなく「キまった」と表記しているので、「あの薬(ヤク)がキまったよね!イカれているよね!」くらいの勢いかもしれないが、もう少し穏便に、「あの決勝点のゴールがキまったよね!」くらいと読む。「君」と出会ったことは会心の出来事であり、もはや揺らぐことのない確定事項である、という喜びを読む。

 「QUEEN SING ~」のくだりは音であって言葉ではないが、ここでも意味をとるなら、「QUEEN SING」の直訳で「女王の歌」→力のある女性の歌→中村佳穂当人=文脈からいって「君に向かって私が歌うぜ!」まで飛躍させられないか。

 「QUE IN 」の連発はキュインッとかクィンッといった感じで鳴き声っぽい。歌詞の途中に「疲れを知らぬ渡り鳥」とあるため、鳥の鳴き声の連想はしやすい。

 鳥の鳴き声を模した歌で、フランスの「コキュ」がある。「鳥が歌うよ、コキュ コキュ コキュ……」という歌詞で、表面的にはカワイイ歌だが、フランスの俗語で「コキュ」の音は「寝取られ夫」の意味がある。つまり「コキュ…」と連呼するのは、「寝取られ夫 寝取られ夫 寝取られ夫ww」と嘲笑する意味になり、全然かわいくない。鳴き声を模しながら同時に何等かの意味をこめるという例があるなら、QUE INも解釈してみよう。

 撮影時に「キューを出す」というように、「QUE」=キューは物事の始めの合図。そこからいけば「QUU IN」=「始まりにおいて」。日本語の「イノチ」の語源は「息(イ)」・「生(イ)」であるとする説があり、「イノチ」は肉体から湧き・生じてくるものが根幹にある。生命の始まりにおいて生じるもの。「QUE IN」を「イノチ」、さらには「息(イ)」→「歌声」そのものだという連想にまでひっぱってくることも不可能ではない。

 

   夜に道一人で歩いていても
   新しいページが光っても
   生きているだけで君が好きさ

 「夜」のあとに「新しいページが光って」と出るのは、たとえば早朝の暁の光。
 夜も早朝(未明)も「君」の姿は見えにくいものだが、歌い手は闇の中での光のように、「君」のことをはっきりと見定める。
 歌詞の前半で「夢か現(うつつ)か」のあいまいな状態が出てきているとしたら、この歌詞には全体として不明瞭なものから明確なものへの変化が見られる。

 

   いけいけいきとし GO GO 疲れを知らぬ渡り鳥
   いけいけいきとし GO GO 誰も何も知らない
   いけいけいきとし GO GO 可愛い君よ

 古来からある「生きとし 生けるもの」という言い回しが、音楽的には「生きとし GO GO」になるだろうか。

 思い出したのは、高見順の詩「われは草なり」。
   『われは草なり 生きんとす
    草のいのちを 生きんとす』
 とくり返す太い感じの詩だ。

 だが歌詞は、「生きとし」でなく「いきとし」とひらがなで表記されている。「いけいけ」のくり返しに「活き活き」の語感もある。ここは多重に意味があると読み、たとえば「生きとし生けるものよ、ゆく年もくる年も幾年も生きんとせよ!」「息して行きて生きていけ!」くらいのノリと読む。


   そのいのちちりじりじぬ
   かぜすさぶぶりかえぬす

 問題の箇所その2。
 だがここも日本語の音で単語を拾っていくことはできる。

 「イノチ」の語源に「息(イ)」があることと、「かぜ(風)」「(吹き)すさぶ」など空気を連想させる語句が重なることから、「そのいのち」をここでは(「息」=)歌声ととる。「ぶりかえ(ぬ)す」は「病がぶりかえす」というように、ネガティブなニュアンスをとる。
 なので、「その歌声は散り散りとなって消え死ぬ」、そののちに「(いのちのない)風は吹きすさぶ」、としたい。

 


 ……長くなるため、他の箇所の詳細は略す。

 

 

 以下、実際に曲をかけながら読むと、わずかに伝わる部分もあるかと期待する。くり返しの箇所を一部割愛。最後の一行は勢いである。

 

※※※※※※※※※※※※

 

   中村佳穂『そのいのち』意訳版 

ああ、もう!私は人のいない荒野をあてもなくさ迷っていた!
その果てで眩しい君に出会ったんだ。
ああ、もう!どうしようもなさの群れに襲われて危険だった!
一人っきりで寂しかったんだ。

そう あれから幾年 いく年が流れていったのか見当もつかない
この夢とも現(うつつ)もつかないもの
うだつのあがらぬ くだらぬものに 
いつまで油を売っているんだ私は

光っている? 光っているんだ!
なんで君はそんなに光っているんだ⁉
光っている!光っているんだ‼
いやもう君だけじゃなく私たちごと光ってるんだ!

やがてその歌声は散り散りとなって消えていくんだろう。   
何もないところに風は吹きすさぶばかりだ、だが
君と出会えた喜びってのは、私にとって会心の決定打だった!
この歌声で讃えよう。泣く、なく、鳴く!息、行き、生きて!

ああ、もう!私は人のいない荒野をあてもなくさ迷っていた!
ああ、もう!なすすべのない波に飲みこまれていた!
一人っきりで寂しかったんだ。

一人っきりの暗闇だったとしても
新しく光りだす未明だったとしても
私は君をはっきりと見定める。
やって来る一日にどんないのちがあるのか 私は楽しみでしかたがない。
君が君であるならば私のすべては満たされる。
どんなにおぼろげになろうとも 私は君を見定める。

生きとし生けるものよ、ゆく年もくる年も幾年も生きんとせよ! 
行け、行け!GO!GO!高い空をどこまでも行く渡り鳥が
行け、行け!GO!GO!誰からも知られることがなくっても
行け、行け!GO!GO!私にははっきりとわかっているよ。
生きとし生けるものよ、ゆく年もくる年も幾年も生きんとせよ。

やがて歌声は散り散りとなって消えていくんだろう。
何もないところに風は吹きすさぶばかりだ、だが
君と出会えた喜びってのは、私にとって会心の決定打だった!
この歌声で讃えよう!
泣くことがなくなって鳴くように!
息して行きて生きていくように!

生きとし生けるものよ、ゆく年もくる年も幾年も生きんとせよ! 
この歌声で讃えよう!泣く、なく、鳴く!息、行き、生きて!
この歌声で讃えよう!泣く、なく、鳴く!息、行き、生きて!
そのいのち!

 

 

うっわぁ!聴いてくれてありがとう!サンキュー!最高!

 

 

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絵を描く作家たち 酉島伝法、ブッツァーティ、ムロージェク他

 先日、酉島伝法の『宿借りの星』(東京創元社 2019年)を読んだ。異形の者が「本日はお皮殻(ひがら)もよく」というような、造語をはじめとした創造力と遊びに満ちており、SF的世界に耽溺できる小説だった。

 しかし個人的に注目したのは、著者自身が写実的な絵も描いていることだ。小説家の落書き的な余興ではなく、本格的に見せるものとして描画表現を出しているのは珍しい。

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『宿借りの星』の冒頭。視覚的な意味で読みづらい文章。

 数多くの絵本作家と、数少ない詩画集の作り手(古くはブレイク、20世紀ではジャン・コクトーなど)をのぞけば、たいてい文章と絵は別のものとして発表される。私としては、商業的な分類の都合さえなければ、わりと簡単に共存できるものだと思っている。児童文学や一部のバンドデシネなどは文と絵のボーダー上にあり、消費者の多くが慣れさえすれば、文と絵が混在した作品も増えるのではないか。

 とはいえ、中には堂々と作家兼画家として活動したアーティストもいる。今回は、何人かの「絵を描く作家」をとりあげる。


イタリアの奇想作家 ブッツァーティ

 絵も小説も書いた近現代の作家として、ブッツァーティ(1906-1972)の名が挙げられる。イタリア出身の短編の名手で、『タタール人の砂漠』、『神を見た犬』など、幻想的で切れ味のある作品を著し、国際的な評価も高い。いまでも新たな翻訳が刊行されていることからすると、日本でもファンが多いようだ。

 画家としてのブッツァーティは、翻訳もある『絵物語』(東宣出版 2016年)で堪能することができる。絵に添えられた短文の相乗効果によって、二次元にとどまらない想像力を湧出させる。作家の短編と同様、わずかな手がかりが世界の秘密を解くカギを与え、味わい深い鑑賞/読書となる。

 

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画像は「部屋」。男は部屋の中で、いつまでも扉にたどりつくことができない。

 作者自身の言葉がふるっている。
 『わたしは画家なのだが、趣味として、遺憾ながらいささか長い間、作家やジャーナリストの仕事もやってきたのである。ところが世間は、その逆だと思っている。だから、わたしの絵を真面目に受け止めることができないのだ。』

  作家が亡くなったのは65歳(1972年)だが、画家としてパリで初個展を開いたのが61歳のとき。最晩年にして公開された「本職」の才能だった。

 


東欧が生んだ希代の諷刺家 ムロージェク

(※諷刺作家ファイルNo.18)

 

  ムロージェク(Mrożek 1930-2013)はポーランド出身の作家で、欧米では劇作家として知られている。個人的に大好きな作家で、諷刺的な切れ味の素晴らしい短編集『所長』、『鰐の涙』、『像』が出版されている。検索してもなかなか出てこないが、ユーモラスな戯曲もいくつか翻訳出版されている。(「大海原」なんて傑作だと思うが、古いし戯曲だしで再評価される機会もなさそうだ。)

 ムロージェクが描くのは、概して真面目な人々だ。「社会的動物」たる人間として、あれこれ気を使いながら、勤勉な市民であろうとする。しかし世の中のシステムが根本的に不条理であるために、どうしようもなくポンコツな結果を生みだしてしまう。ファシズムや20世紀の大戦でも見られた人間の業が、わずか数ページの短編から感じられる。社会制度を皮肉る優れた喜劇作家であると思う。

 戯曲や散文で発揮されたムロージェクの才能は、マンガにまではみ出していた。それらは翻訳された短編集のあいまに、オマケのような具合で掲載されている。

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 絵そのものは制作時間数秒と思われる1コマ漫画が多く、ジョーク、気の利いた一言、哲学的なちょっとした考察などでできている。ジャーナリストとしても活動した作家であり、新聞に載せる諷刺画を自前で生みだしたようなものではないか。けれん味のある短編と1コマ漫画は、表現として遠いものではないことがわかる。

 


児童書界の孤独の描き手 R・チムニク

(※諷刺家ファイルNo.27)

 チムニクは1930年、現ポーランド領に生まれた作家だ。『クレーン男』や『タイコたたきの夢』は一応児童文学の分類になっているが、豊かな寓意性を宿した苦味ある名編である。作家自身による挿絵は、デザイン性の高いユーモラスな人物造形がなされている。しかしモノクロの線の細い描画は、人間の孤独を示して雄弁である。若くして『熊とにんげん』でデビューしているが、その作品からすでに描いているのは孤高の存在だ。チムニクが一貫して描くモチーフであり、絶海の孤島にたった一人で生き、死んでいくかのような人生観から生まれ出たものだ。

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画像は『クレーン男』(パロル舎 2002年)から 


その他の描き手/書き手たち

 「小説家」以外も含むが、「絵と文」を同時並行して発表している作家を紹介するもの自体がなかなかない。この機会に何人かの名前を並べる。

 

A・ジノビエフ
 論理学者で小説家で詩人で諷刺画家。『劇画詩集 酔いどれロシア』(岩波書店 1991年)で詩と絵を観ることができる。子どもの頃に初めて学校で描いた絵がレーニンの諷刺画で、即休学をくらったという伝説をもつ。これは諷刺画家のエピソードとして最高の部類であろう。

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ヘルマン・ヘッセ

 20世紀を代表するドイツ文学の名匠。40代から水彩画を始め、小説の世界にも通じるような風景画を残した。岩波書店の同時代ライブラリーに、『色彩の魔術―ヘッセ画文集』がある。

 

草間彌生 

 世界各地の美術館で、来場者数の新記録を叩き出している現代アーティスト。小説に『クリストファー男娼窟』(1983年?)があり、華美で過剰な文体によって世紀末的世界を築いている。

 

クリヨウジ(久里洋二

 20世紀のアニメーション界に名を残す人物で、ナンセンスなイマジネーションはアートの分野にまで影響を与えた。小説を何冊も出しており、カラッとした能天気さに持ち味がある。星新一阿刀田高なら話のオチをつけるだろうところで、シュールな展開をシュールなままで放り出す自由さがある。

 

北野武ビートたけし

 芸人・タレント・映画監督・音楽家・現代アーティストであるとともに、小説家で画家でもある。世界各地で開かれた個展も好評。私は以前、東京オペラシティアートギャラリーで開かれた企画展を鑑賞したが、「生みだせるものは何だって生み出していい」と宣言するかのような精神は、大いなる感化を受けるものだった。

 

吉増剛造

 現代詩の最前線に立つ詩人で、年を重ねるごとに激しさを増している。詩的表現がいきすぎて現代アートと同化しており、国立近代美術館などでの個展も開催された。詩人なのでもちろん散文も書いているが、絵画、写真、映像、朗読(音楽)と、表現のボーダーを越境する。詩集自体が視覚的な効果を極めており、時に渦をまきながら文字が小さくなって、途中から読めなくなるような作品もある。それらは識字と視覚面での知覚の能力がすぐそばにあることを伝えている。

 

 

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【写真詩】石川啄木歌集付

 

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   人がみな
   同じ方角に向いて行く。
   それを横より見てゐる心。

   家を出て五町ばかりは、
   用のある人のごとくに
   歩いてみたけれど——

 

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   死ね死ねと己を怒り
   もだしたる
   心の底の暗きむなしさ

 

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   どんよりと
   くもれる空を見てゐしに
   人を殺したくなりにけるかな

 

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   己が名をほのかに呼びて
   涙せし
   十四の春にかへる術なし

 

   高きより飛びおりるごとき心もて
   この一生を
   終るすべなきか

 

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 自身で撮影した写真に、今回は石川啄木の短歌を備えた。冒頭の前衛的な二首は歌集「悲しき玩具」、それ以降の四首は「一握の砂」から拝借している。
 短歌については、以前『ひきポス』で〈生きづら短歌〉特集をしたことがある。

〔→ ひきこもり目線で選ぶ〈生きづら短歌〉の最前線Ⅰ 平成の牛丼編 - ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

 しかし、石川啄木ほど苦難を歌った歌人はいないだろう。わずか二十八年の生涯の内に生み出された、苛烈な悲壮が宿っている。

 

タグ 〈写真詩〉