愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【当事者研究】本当の「不登校の原因」を語るにはどうしたらよいか(前編) 「行きたいけど行けない」ことを語りなおすために

今回と次回は、二回に分けて、当事者研究を載せる。
私は、いわゆる「不登校」において、「行きたいけど行けない」感覚があった。
「原因は何か」、と、さんざん聞かれてきた。
しかし、自然なかたちで、理解される応答をすることは、難しかった。
この数十年の「不登校」論においても、明瞭な説明がない。
「行きたいけどいけない」感覚は、どのように語ればよいのか、を考える。

Ⅰ 社会問題としての「不登校の原因」はなぜ語りにくいのか

《要点》  「不登校」には、「さまざまな原因がある」、と言われる。しかし、そもそも「不登校」が、さまざまな欠席の事例を、ひとまとめにした言葉にすぎない。社会問題としての、「不登校の原因は何か」、という質問の仕方では、一つの答えを、はっきりと返答することができない。


私は、これまで、「不登校の原因は何か」、と、さんざん、聞かれてきた。
不登校」における、最大の、問いかけだろう。
何十年も前から、当事者や、「専門家」が、それぞれに考え、それぞれのやり方で、返答をしてきた。
幾千、幾万の語りのなかに、「原因」を射抜いた「答え」が、あったかどうか。
私は、不十分だ、と考える。
私自身が、当事者として、語れない、ということに、恥辱的な、怨嗟(えんさ)を抱えてきた。
私はなんとかして、「不登校の原因」に答えたい、と思っている。

全般的な「原因」に対する「答え」としては、「原因はさまざまである」、とか、「いくつもの要因が、複雑にからみあっている」、などがある。
これは、実質的には、中身のない、「答え」ではないだろうか。
私は、納得できない。
なぜ、こんな程度の「答え」しか、ないのか。
自分なりに、考えてみた。

そもそも、「不登校」とは、何か。
公的な定義の、ポイントになるのは、「病気や、経済的理由などの、特定の理由(原因)以外で、学校を欠席すること」(※1)だ。
病気や貧困という、比較的はっきりした理由を除いた、「その他」のような欠席を、「不登校」、という言葉で、ひとまとめにしている。
不登校は、Aによる欠席である」、という、定義ではない。
不登校は、非Aによる欠席である」、という、消去法によって、定義されている。(※2)
不登校」は、言葉そのものにおいて、一言で説明できるような、特徴をもっていない。

つまり。社会問題としての、「不登校の原因は何か」、という質問には、必然的に、はっきりした「答え」が出せない。
理由の一つは、数十万人の、バラバラな、それぞれには無関係な子どもたちを、「欠席」だけを共通項にして、一つのことであるかのように、とらえてしまっているため。
また、一面では、「原因がはっきりしない欠席」のことを、「不登校」と言っているためだ。
診断名が付いて、病欠と分類されるような、わかりやすい欠席ではない。
質問の一部に、「『原因がはっきりしない欠席』の原因は何か」、という意味を、含んでしまっている。
これでは、はっきりとは、答えようがない。
事例によっては、「『不登校』の原因が不明」というよりも、「原因不明の欠席のことを『不登校』といっている」、くらいの認識をしても、いいくらいではないか。
結果、回答者は、「原因はさまざまである」、とか、「いくつもの要因が、複雑にからみあっている」、などという(私を納得させない)返答しか、できなくなっている。

 

 

Ⅱ 個人の「不登校の原因」はどのように語られているか

《要点》「不登校の原因」が語られるときには、理解しやすい事例が好まれる。報道されるときは、「いじめにあったから」「教師が厳しかったから」、といった語りが参照されやすい。しかし統計を見ると、「朝、起きられない」「疲れる」「教室の雰囲気」など、あいまいな「原因」(とさえ言えないような語り)が多数を占めている。

 

……その一方で。
わかっている。そんな、言葉の定義や、論理学じみた話なんか、本質的にはどうでもいい、ということを。
私は、自分の過去(「不登校」)を、どのように語ればいいのか、を知りたい。
親が、子どもの「不登校の原因」を知りたいときも、定義なんて、問題ではないだろう。
理解したいのは、目の前にいる、子ども一人だ。
「なんで、うちの子は学校に行かないのか」。
「まさか、学校でいじめに遭ったのではないか」。
「原因さえ取り除けば、また登校してくれるのではないか」。
そのような思いから、「原因」を聞きたくなってしまう。
不登校」の家庭には、憤(いきどお)りや、怨念にまみれた、求不得苦(ぐふとくく)が、渦巻いている。
(少なくとも、私や、私の家は、そうだった。)

大人は、はっきりした「原因」を聞きたがる。
「いじめられたから」、「教師が厳しかったから」などと、「原因」をあてはめる。
メディアに出る「不登校」の子には、よく、わかりやすい物語があり、「原因」がある。
そのため、やむをえない事情で欠席したにすぎず、「原因」さえなくなれば、またすぐに通学するかのように、報じられることがある。

私は、世の中の「原因」の語りが、どれも、違う、としか思えない。
いじめについて言えば、「いじめが起きているとき」に出席し、「いじめが起きていないとき」に欠席(「不登校」)する、ということは、ありえる、と思っている。
しかし、大人が「原因」として理解し、採用するのは、「いじめがあるから欠席(「不登校」)した」、という、語りだけだ。
それは、個人や、家庭内の物語としてだけなら、採用されても、かまわない。
しかし、「不登校」全般の語りとして、因果関係の強い物語ばかりが、広く報道されるのは、良くない。
何年も、何十年も、そのように報道し、多くの人に、「不登校」はなんらかの「原因」があるものだ、と感じさせたことは、結果として、理解をゆがめさせてきた、と思う。

統計を見ても、これという「原因」は、見定められていない。
たとえば、文部省の、調査がある。(※3)
不登校」の子どもたちに、「どのようなことがあれば休まなかったと思うか」、をたずねた。
圧倒的に多かったのが、「特になし」、という、(調査の試みを否定するような、)回答だった。
小学生・中学生・高校生の、すべてのカテゴリーで、「特になし」を選んだ子どもが、50%を超えていた。
中学生で、年に180日以上欠席した人だと、「特になし」が、62.2%。
なお、「学校の先生からの声かけ」は7.3%、「学校にいるカウンセラーと会って話をすること」は3.5%だった。
実に低い、支持率だ。
教師や、スクールカウンセラーと話す機会があっても、欠席(「不登校」)することは変わらなかった、と判断されている。
取り除けるような「原因」があったなら、このような結果には、ならないだろう。(※4)

また、日本財団の、調査がある。
不登校」の中学生に、「中学校に行きたくない理由」、を(直球に)たずねた。
あてはまる項目を、選ばせるもので、結果をランキングにすると、以下になる。

1位「朝、起きられない」59.9%
2位「疲れる」58.2%
3位「学校に行こうとすると、体調が悪くなる」52.9%
日本財団不登校傾向にある子どもの実態調査」2018年)

「いじめられた」とか、「体罰を受けた」といった、わかりやすい物語になるような「原因」は、上位に並んでいない。
何十年も前から、実態としては、このようなものだった。
これまでも、理由をたずねると、「わからない」、「教室の雰囲気」、「なんとなく」などが、多く言われてきた。
(つまり、具体的なことが、言われてこなかった。)
それらを「分析」して、「無気力」や、「発達の遅れ」、などという(侮辱する)表現で、まとめられてきた。
「朝、起きられない」や、「疲れる」もそうだが、これらは、「不登校」の内実を、とらえる語りになっていない。

私は、「不登校」において、「原因(・理由・きっかけ)」の語りが、機能していない、と思う。
「行けない」や、「行かない」、という語りだけなら、問題ない。
私が受け入れられないのは、「行きたいのに行けない」、のような語りだ。
このような語りでは、納得できるような、「原因」の説明が、成り立っていない。
なぜ、「原因」の語りが、これほどまでに、機能していないのか。
私は、自分なりに、説明を試みてみたい。

(と、長くなっているが、ここまでが、プロローグのようなものだ。本当に書きたいことは、これ以降になる。)

 

 

  注

※1 文部科学省の「不登校」の定義は、『何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの』

 

※2 日本で、はじめて専門書に「不登校」が登場したのは、1972年のこと。以下のように、定義されていた。
『ここでは、諸種疾患のための就学不能、親の無理解や貧困による不就学、非行などが原因となっている怠学などを除外したものを一括して、不登校(non-attendance at school)と称している。』(辻悟編『思春期精神医学』金原出版 1972) 当初から、「〇〇を除く」、という(医学でいう「除外診断」の方法で)、特定の分類にあてはまらなかったものを、「不登校」と言っていた。

 

※3 文部科学省不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書」2021年10月発表

 

※4 もっとも、何らかの「原因」が語られても、それが「原因」にあたるものではない、ということはよくある。このことは、早い時期から、指摘されていた。
佐藤修策の『登校拒否の子』(1969年)で、「学校恐怖症」について、説明した箇所がある。
(「不登校」について考えるために、「登校拒否」をタイトルにした論文から、「学校恐怖症」の説明を引く、という、こじれたことになっているが。)
『学校恐怖症は登校刺激に不合理的な不安を示して登校を拒否する。情緒障害的な行動異常である。子どもが示す不安ないし恐怖は学校を中心に明確に指摘されることもあるが、そうでないときもかなり多い。また指摘された理由(たとえば、勉強ができない、委員にされる、先生がこわい)も、聞く人、場所、時に応じて変転し、一定しないし、また子どもが指摘したといっても、客観的に確かめ得る場合は少ない。その存在を確かめて、関係者がその除去に努めても、事態は解決されない場合が多い。』 注:()内は原文
すでに、子どもの言う「原因」が除去されても、解決されない場合が多い、と指摘されている。

 

 

 追記 『ウェブ版 ひきポス』に、いくつか、「不登校」論を載せている。もし奇特な方がいたら、参照してほしい。

www.hikipos.info