愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【本】「不登校の原因」はどのタイミングで発生するか?中動態から見る「教育マイノリティの世界」④

中動態から見る「教育マイノリティの世界」/國分功一郎著『中動態の世界』読書メモ④

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   「選択」と「意志」は別物

 『中動態の世界』では、ハンナ・アレントを参照し、「選択」と「意志」の違いを考察している。

 たとえば、「リンゴを食べる」、という何気ないことがある。「食べない」という選択や、ミカンやスイカを食べる選択もありえたのに、「リンゴを食べる」選択をしている。リンゴを食べたのは目の前にあっておいしそうだったからかもしれないし、昨晩リンゴの映像を見ていて食べたくなっていたのかもしれない。さらには幼少期にリンゴに好印象を抱くような何かがあって、それでリンゴを食べたとも言える。人によってはリンゴを食べたことがなく、それが食べ物であると判断できるだけの知識を持つことがあって、それで食べたという選択をしているということもある。「リンゴを食べる」選択はその瞬間だけのものではなく、過去にあったさまざまな影響によって、つまり過去からの帰結としてなされている。

 人は何でも選択しながら生きており、そこには意志があるとみなされる。選択と意志はほとんど同じみたいな感じがするけれど、著者はその二つがまったくの別物だという。
 意志とは何か。『それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。』(132p)

 選択のスタートがどこかというのは、日常生活ではどうということもないけれど、ひとたび責任が問われると問題になる。そのリンゴが実は食べてはならないもので、誰が、なぜ食べたのかという責任が問われたとき、この選択のスタート地点を確定する必要が出てくる。その時に、意志の概念が呼び出される。その意志の概念は選択と過去のつながりを切り、選択のスタート地点を私のなかに置こうとする。『望むと望まざるとにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。』(132p)
 何か問題が起きたときに、その選択がポイントになり、個人の意志(行為)の問題にされる。

 著者は、選択や意志が混同されることによって、よく議論に混乱が起きていると言う。周囲の環境や心身の状態で選択はめまぐるしく変わるものであるのに、それがはっきりとしたスタート地点をもった(過去から切断された純粋な)意志に取り違えられてしまうためである、と。

    「行かない」に取り憑く魔物

 「不登校」状態の場合はどうか。

 ある子供が、朝の玄関で行きしぶるような、登校圧力の無効が起きているとする。ガッコウに「行かない」とき、それは子供のその時の「選択」=「意志」ということにされやすい。
 けれど本当にそうか。まず意志が発生するタイミングだけれど、子供はすでにガッコウというあの(呪うべき)場所のことを経験しており、知識においても身体的な体験においてもすでに知っている。最後にガッコウに行った時であれ、はじめてガッコウについてを知ったときであれ、「行かない」選択が発生する要素はいくらでもある。(「不登校」でググると検索キーワードにすぐ「原因」と出てくるが、この言葉も過去の分断をしている。)

 私の実体験で、「明日はガッコウへ行きます」と約束させられ、「行く」意志を表明している場合もあった。それなのに当日朝になったら「行かない」になる。「登校拒否の子は意志が弱い」というのは、90年代の批判の常套句だったけれど、ここで個人の選択なり意志なりはどうなっているとみなせるのか。 

 著者は、責任が問われたときに『意志の概念が呼び出される』と言った。『意志は後からやってきてその選択に取り憑く』。それは責任を追及する人が、子供の側に取り憑かせるものとしてある。選択しているかどうかも定かでないのに、「ガッコウへ行かない」ことは子供の意志であり、責任があるのだとされる。これだけですでに、教育マイノリティに対する暴力性がある。毎日「ガッコウに行く」なら主体性や選択など問われないのに、「ガッコウに行かない」ことは意志(とそして自己責任化の合わせ技)にされる。子供に、主体性が取り憑かせられている。

   原因にされる子供 

 『中動態』からは離れるけれど、「原因」についてもう少し言う。
 岡田美智男著『弱いロボット』(医学書院 2012年)には、ハーバード・サイモンの研究による「サイモンの蟻」の話が出てくる。「サイモンの蟻」は、ウロウロした足跡の残る蟻の絵があり、被験者に「砂浜に残された足跡が複雑なのはなぜでしょう」と聞く。すると、蟻が「急いでいる」からとか「迷っている」からとかの答えが出てくる。けれど実際には、砂浜のデコボコがあるためにウロウロした足跡になっているということもある。蟻と砂浜との関わりによって生まれているもので、原因はどちらのせいとも言いきれない。にもかかわらず、人は蟻一匹に何かの原因があるとみなしてしまう。『「僕らは鳥瞰的に、状況を無視して物事を見てしまいがちだよね」』という話から、岡田氏は個別能力主義や認知主義を生みだす見方を指摘する。

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 思い出すのは、「不登校の原因」をめぐる悲惨な歴史だ。未だに子供個人に何らかの原因があるとする見方が根強く残っている。
 そもそも「不登校」という言葉の歴史がひどい。経緯を言うと、70年代にアメリカの精神科医達が子供を「学校嫌い」や「学校恐怖症」と診断し、それが日本にも移ってきた。(研究自体は50年代からあった。)80年代には「登校拒否(症)」と呼ばれ、子供の「甘え」や「怠け」、もしくは親子関係の病理が「原因」とされた。88年の朝日新聞に、「30代まで尾を引く登校拒否症」「早期完治しないと無気力症に」という見出しが一面で出たこともある。子供個人を病理とする見方が、戸塚ヨットスクールしかり、アイメンタルスクールしかり、子供の虐殺を生んできた。「登校拒否」のネガティブすぎる意味を脱却する必要性もあり、「不登校」の言葉が前景化した。
 「学校恐怖症」という個人への診断名から、「登校拒否」という個人の意志表示的な言葉に移り、「ガッコウに行っていない」状態像全体が射程に入る「不登校」へ。個人から全体化・抽象化していった言葉の変転の流れがある。(私としてはその流れのもう一歩先へ行く必要を感じており、「教育マイノリティ」としている。)

 「不登校の原因」は、個人の意志によるものとして語る問題ではない。そもそも「原因」が、一人の子供に丸ごと負わせるようなものであってはならないと思っている。

   つづく(次週最終回)

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第3回

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