愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【現代アート時評】千葉正也個展(東京オペラシティアートギャラリー) 他

 

千葉正也個展(初台/東京オペラシティアートギャラリー

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オススメ度 ★★★★★

 会場に入ってまず目に入るのは、木製のダクト的な構造物に土が敷き詰められているインスタレーションと、緑の葉が茂ったいくつかの植木鉢である。一見豊かな自然があるように感じられるが、実際に敷き詰められているのは人工的な木材チップであり、植木鉢に囲われた植物も中空に置かれているため地面に根を張ることがない。この光景は野生的な印象に反して、人の手によって完全に管理された、自然物の破壊後の姿なのである。随所に置かれた監視カメラの明示を含め、コロナ禍で露わになったシステマティックな社会を時事的に批評した構成と読まざるをえない。

 会場全体を使って設営された絵画やオブジェは、不安定にぶら下がり・垂れ・落ちるイメージが反復されている。それらの余白に視認できないかたちで「描かれた」重力は見えない空気=ウイルスの含有への示唆だろうか。本来床に置かれて使われる電気マットは重力に抗して壁に飾られ、そこに単独でプリントされた医療従事者や警備員は微笑んで三本指を出す。それは「三密」を避けて生活しようという平和へのメッセージであると同時に、二本指のピース(平和)ではないという非常事態宣言下の苦肉の肖像でもあろうか。電気マットのコンセントにつながれて生まれる温度はどこまでも人工的であり、暖まるにも社会制度に組み込まれた発電設備が必要なのである。シュルレアリスム的なモノ尽くしを誇る千葉の絵画は、豊かな虚構に労が尽くされれば尽くされるほど、コロナ禍にあっては表層的な物質社会への相克に転じて皮肉となる。

 

www.operacity.jp

 

 

 

「教育三部作」展(清澄白川/東京都現代美術館別館)

オススメ度 ★☆☆☆☆

 

 東京都現代美術館の本館からは離れた所にある、ほとんどの人に知られていない別館での展示となるが、このまま人に知られないままでよかろう。映像作品が二点と、大規模な演劇上演から成る。

 映像の一つは「主人公たりえなかった子供たちのいるレイヤー」と題された長時間の作品。内容はひねりもなくそのままであり、実際にテレビ放映されたアニメ作品から、主人公のいない映像(レイヤー)の断片が集積され、垂れ流し状態で放映されている。ほぼ背景として描かれているために、子どもたちのほとんどは輪郭がブレ、顔がつぶれ、時として風景の一部と同化している。これを作品として評価するためには、稚拙な精神を持った作者の感傷に同調せねばならない。

 もう一つは贅沢にもVRを用いた作品「我らの少年達の生き延びる道を教えよ」。学校の教室を模した室内に座らされ、観客はVRゴーグルを着用。二時間弱の映像の内で、学校生活の三年間が高速で過ぎていく。四季の移り変わりや文化祭などに一部ノスタルジーが喚起されるが、全体としては授業の退屈さや教師への不愉快さ、同級生への苛立ちを感じる「日常」が強調して再現されている。時間が経つほど解像度は荒くなっていき、卒業式の日には、教室内の同級生達は幽霊のようにかすみ、窓の外の景色は幻へと変わっていく。本作の後味は、B級の青春映画からすべての娯楽的要素を抜いた苦渋である。

 最後は盛大な演劇作品「僕の今日」である。江東区内の本物の校舎を舞台に、教師や生徒全員が演劇を行う。来場者は校舎内を自由に歩き回って鑑賞。上映時間は一日につき2時間で、毎日午前中に、実際のチャイムを区切りとしてくり返される。役者(実際の教師や生徒)達は、一見通常の授業や休憩時間を過ごしているように見え、鑑賞開始時は単に日常の学校を歩き回っているだけのように感じられる。しかし実際には詳細な脚本によって緻密な演技指導が成されており、すべての言動が執拗に反復されている。教師が頭をかくタイミング、隣の席にいる生徒にちょっかいを出すしぐさ、休憩時間に教室間を移動する際の衣服のだらしなさなど、何気ない言動もすべて緊密な演劇である。はじめ理科室にあったノートは、いくつかの生徒を経て、終演時にはまた理科室に戻っていた。日々はループし、この学校に生きる者は誰一人として明日を過ごすことがない。これは不登校経験がある作家の心的外傷を放逐した狂気的な試みと思われるが、何よりもまず、完全に同一な授業を毎日行わねばならない子供達に同情する。このような作品に、大勢の人々と多額の都民税を費やすべきではない。

 

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