愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【本】 ガッコウへ「行く」ことも「行かない」ことも能動ではない。中動態から見る「教育マイノリティの世界」③

中動態から見る「教育マイノリティの世界」 國分功一郎著『中動態の世界』読書メモ③

 

不登校新聞」哲学者・國分功一郎インタビュー

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 〔問題:カツアゲにあって金を渡す行為は、能動態と受動態のどちらになるか?〕

 中動態を考察していく中で、著者は金を巻き上げられるカツアゲの例を出す。相手に金を渡す行為は、自ら金を出している点で能動でもあり、恐喝されている点で受動ともいえる。「能動態か受動態か」の分け方で、一つには「方向」があるという。たとえば自分から外に向かう「殴る」なら能動で、行為が自分を向いている「殴られる」なら受動になる。けれど金を渡す行為だと、方向が自分の外(=能動)に向かっている。私はカツアゲなら問答無用で受動だろうと思ったけれど、問答するとむしろ能動っぽく見えてくる。

 ここで(著者が専門としている)スピノザが登場する。
 スピノザは、行為の「方向」の違いではなく、行為の「質」の違いをとらえる。
 『われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。』(256p)

 私はスピノザの使う「本質」という言葉を読めていない気がするけれど、ともかく行為する人の内面が問われている。
 カツアゲにあった場合、いくら行為として自分から金を渡していても、自分の「本質」(ざっくり見るなら「したいこと」)ではない。外からの刺激で本質がねじまげられているので、能動とはいえない。

 〔カツアゲの問題に対するスピノザの解答:受動態である。〕

 

 別の箇所では、フーコーの権力論について言及されている。
 「権力」というと、人々を抑圧し、各々の行為を消極的にさせるものだという印象がある。しかしフーコーは、「権力」は抑えつけるものではなく、積極的に行為させるもの(「行為の産出」)だととらえた。(145p)
 カツアゲがそうであるように、強制ではなく自発的、自発的ではないが同意しているようなことは日常にあふれている。強制か自発かの対立=能動か受動かの対立で物事を見ると、どちらになるかよくわからず、それによって不適切な判断も生じうる。しかしこれも、能動と中動の対立としてみることによってわかりやすくなる。権力の関係は、能動性と受動性の対立ではなく、能動性と中動性の対立によって定義するのが正しい、と著者は言う。(151p)

 〔カツアゲの問題に対する本書の解答:能動態と中動態で見るべきである。〕


 さて(私だけにとっての)本題に入るけれど、「ガッコウに行く」という行為はどのようにとらえられるか。
 私が登校圧力に苦しめられていた時期は、「行く」ことにも「行かない」ことにも苦しみがあった。行こうとしても心身の動きが止まり、全身が激しい虚脱感に襲われる。また行かないことにしても、罪悪感と劣等感と自責に襲われる。どっちにしてもさんざんな目に合う。

 スピノザは個体の「本質」によって、「能動か受動か」が分けられるという。「本質」を単純に自分の「したいこと」とか「望ましいこと」ととらえてよいなら、まずガッコウへ「行く」ことは「本質」ではない。養育者や教員からの登校圧力があって、自分の本質はねじまげられている。
 また、ガッコウへ「行かない」ことも「本質」になっていない。ガッコウへの登校圧力に対して、「行きたいけど行けない」という感覚はよくあるものだ。行きたくないから「行かない」のではなく、「行きたい」・「行かなければならない」という思いにからみとられながら、現実としての「行かない」が発生している。

(ちなみに「行きたいのに行けない」という言葉は、「行きたい」思考と「行けない」状態像との対立にあたる。言葉の意味としては矛盾していない。)

 行為の「質」が能動態か受動態かを分けるなら、ガッコウに「行く」ことも「行かない」ことも、能動ではない。自分の自然なままの精神と身体が「本質」であるなら、「行きたい」精神と「行けない」身体が同時にある状態は、「行く」でも「行かない」でも能動にならない。
 こういうところを解釈していくためには、やっぱり「能動態と中動態」の対立って便利なんじゃないか。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 


   つづく(毎週日曜日更新)

 

第2回