愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【当事者研究】本当の「不登校の原因」を語るにはどうしたらよいか(後編) 「行きたいけど行けない」ことを語りなおすために

前回と今回は、二回に分けて、当事者研究を載せている。
私は、いわゆる「不登校」において、「行きたいけど行けない」感覚があった。
「原因は何か」、と、さんざん聞かれてきた。
しかし、自然なかたちで、理解される応答をすることは、難しかった。
この数十年の「不登校」論においても、明瞭な説明がない。
「行きたいけど行けない」感覚は、どのように語ればよいのか、を考える。

 

Ⅲ 「不登校」の語りには、「行けない」・「行かない」・「行きたいけど行けない」がある

《要点》 「不登校の原因」の語りのうち、事情があって「行けない」ことや、自ら選んで「行かない」ことは、筋の通った説明になっている。しかし、「行きたいけど行けない」、という語りには、矛盾がある。この語りが、「不登校」論に混乱を生んできた。


私は、何が、どう、語れていない、と感じるのか。
なぜ、私自身が、「原因」を語れなかったのか。
具体的に、考えていく。

不登校」は、報道されたり、論じられたりするときに、バラバラの事例が、ひとくくりにされている。
事情があって「行けない」ことも、自ら選んで「行かない」ことも、当人が「行きたいけど行けない」ことも、一緒くたになっている。
これでは、語れるものも、語れない。
かたくるしすぎて、やりたくないのだが、一つ、図を出す。
(こまごましてくるので、少し先の方まで、読み飛ばしてもいい。)

「原因」の語りが、不十分になってしまうのは、欠席のうちの、「不登校」のうちの、さらにそのなかの、一部分にすぎない。
私が追及したいのは、「行きたいのに行けない」、という語りについてだ。
ここが、「不登校」論を、混迷させてきた本丸でもある。

どのようなことか。
まず、出席の対象になる子どもの、欠席がある。
そのなかで、狭義の「不登校」にあたらない、欠席がある。
ざっくりとした説明をすると、以下のようなものだ。

経済的理由……学費が払えなかったり、働かねばならなかったりすることが理由の、貧困による欠席。(語りの例:「学費がないため、通学できない」。)
病欠……病気や、障害などが理由の欠席。(語りの例:「入院する必要があり、通学できない」。)
ホームエデュケーション……自宅学習や、フリースクールなど、一般的な学校制度に属していないことを理由とする欠席。(語りの例:「自宅学習を選んだため、通学していない」。)

(※これらは、学校の判断で、「出席」扱いになることもあるが、わかりやすくするため、ここでは「欠席」と記す。また、ややこしくなってくるため、保健室登校や、オンライン授業時の出欠の可否や、出欠以前に学籍の有無が関わる不就学についても、ここではふれない。)

語りとしては、「(事情があって)行けない」や、「(自ら選んで)行かない」、にあたる例だ。
これらの例であっても、「不登校」として語られたり、子ども自身が、「不登校」としてとらえて、悩んでいることはある。
しかし、それらは語りに矛盾がないため、ここでは問題にしない。
「家が貧乏で通学できなかった」、「病気だから通学できなかった」、「ホームエデュケーションを選んだから通学しなかった」、といった語りは、それ自体で、納得できるだけの、「原因」の、語りになっている。
私がとらえたいのは、語りがたい、伝わりがたい欠席について、だ。

では、欠席のうち、上記以外の、「不登校」とは何か。
私は、「不登校」が、「引責(いんせき)的な欠席」と、「免責(めんせき)的な欠席」に、分けられる、と考える。
欠席の責任を、自ら引き受ける「引責」と、責任のない、「免責」だ。
欠席することを、自分で選んだ(引責的な)欠席と、選んでいない(免責的な)欠席、の違いでもある。

(※わかりやすいなら、「引責」を「有責」、「免責」を「無責」に言い換えても、かまわない。ただ、それだと「無責」が、「無責任」のようになってしまうので、避けた。また、責任が「内在する欠席(引責)」と、「外在する欠席(免責)」に分けようとも思ったが、哲学的な読みづらさが出てくるので、止めた。)

「引責的欠席」について。
文字通り、欠席の責任を、自ら引き受けるところに、「引責」がある。
「自分で行かないことを選んだ」、とか、「学校は有害だから行かない」、などと主張する、当事者の語りに、「引責」がある。
「行きたいのに、行けない」ではなく、「行きたくないので、行かない」、という語りだ。
「ミュージシャンを目指すから、高校には行かない」という語りや、「学校なんて、別にどうでもいい」、といった、遊び人的な語りや、不良的な語りも、これに入る。
これは、言葉に、矛盾がない。
不登校の原因は何か」、という問いかけの、答えになっている、と思う。
個人による、意志をもった判断であり、理性的な選択、だ。
なので、ここでは、「引責的な欠席」について、深く問わない。

(ただし、「自分で行かないことを選んだ」、という子でも、何らかの圧力によって、引責せざえるをえなかったことは、少なからずあるだろう。
それにしても。個人の意志と選択である、ということが、いかに、今の世の中で、高い価値を持っていることか。
國分功一郎の、『中動態の世界』あたりを好んで読む人なら、「責任」の不相応な価値について、思い出すことが、あるのではないか。)

 

Ⅳ 免責的な欠席のうち、理由をはっきり語れないケースはどのようなものか

《要点》 「行きたいのに、〇〇のせいで、行けない」という語り(免責的な欠席のうち、応答可能なもの)であれば、「不登校の原因」に対して、矛盾のない応答ができている。しかし、「原因」がなく、「行きたいのに、行けない」としか答えられなければ、説得力を欠く。質問者を納得させるだけの応答が、できていない。私は、これを、応答可能な、語れるものにしたい。

では、「行きたいのに、行けない」、「免責的な欠席」とは、どういうものか。
当人が、「選んでいない不登校」、だ。

免責について、あえて説明すると、たとえば、ある車が、事故を起こしてしまったとする。
事故の責任は、誰にあるか。
もし、道路や、標識の方に問題があったなら、その道路や、標識の管理者に、責任があるといえる。
よそ見をしていたなど、運転に問題があったなら、ドライバーに、責任があったといえる。
一方で、後部座席にいた人は、(何もしていなければ、)責任がない。
車には乗っていても、運転には関わっていないため、トラブルに責任がなく、事故に関して、免責される。
誰かから、「事故が起きたのはお前のせいだ」、と言われたところで、負わねばならない責任はない。

不登校の原因」においても、当人の責任にならないはずの、欠席がある。
さらに、私はそのなかで、「応答可能」な欠席と、「応答不能」の欠席に分けられる、と考えている。
はっきりとした原因を、「語れる欠席」と、「語れない欠席」だ。

まず、応答可能な、語れる欠席には、どのようなものがあるか。
「いじめを受けたせいで、学校に行けなくなった」、
体罰がひどすぎて、学校に行けなくなった」、
「学級崩壊しており、通える状況になかった」、などの語りだ。
これらは、「学校に行きたかったが、〇〇のせいで、行けなかった」、という、矛盾のない語りが、成立している。
(メディアで好まれるのは、このような記述ができる欠席だ。)
不登校の原因」を聞かれても、当人が、何らかの「原因」を語れることで、簡明な応答ができる。
その何かさえ取り除ければ、通学できる、と思わせてくれるような、語りだ。

私が追及したいのは、もう一つの方だ。
「原因」に対して、応答(responsibility)が発揮できない欠席だ。
理由のわからない、「行きたいのに、行けない」ことを、どう語るか。
これまで、「よくわからない」、「朝起きられない」、「疲れている」、「なんとなく」、「雰囲気のせい」、といった、語りならざる語り、が繰り返されてきた。
(「朝起きられないから、行けない」、を起立性障害ととらえたり、「教室の雰囲気が合わないので、行けない」、を発達障害などにとらえることがある。それらは時に、語りに必要以上の意味を与えて、無理やり「原因」として、成立させているような、印象を受ける。今は、それらでないケースを、どうとらえるか、を問題にしている。)

私としては、欠席のうちの、「不登校」のうちの、免責的欠席のうちの、さらに、「応答不能」なケース。
ここを、「不登校」の語りのなかから分離させられれば、納得のいく、有効な「語り」を、発生させられるはずだ、と考える。

では、どのように語ればよいか。
方針だけは、『ウェブ版 ひきポス』で、公開した。

www.hikipos.info

 

その先は、まだ、これからだ。