先日、WEBメディアの『ひきポス』で、私自身の電話恐怖症について書いた。
WEB検索などで「電話恐怖症」について調べると、基本的には対人恐怖や不安障害の一種として扱われている。「会社にかかってきた電話をとること」、「周囲の人に自分の通話を聞かれること」「話し方を笑われるのではないかと不安がること」などが、実際の例として挙げられている。
サイトによってはビジネス電話講習や電話検定といったものまであり、ビジネスマナーに適した話し方を身につけることが対処法になるという。
しかし私の場合、それでは役に立たない。私は「自分が一人のとき、未知の相手に、自分から電話をかけること」が恐ろしい。アルバイトの面接をとりつけることや、取材申し込みのため出版社に電話をかけることがあてはまる。
相手が自分に対して高圧的にならないという予測があれば、この恐怖感は起こらない。気軽に話したことのある友人や、お客様サービスセンターに問い合わせの電話をかける場合であれば、あまり怖くならない。
つけ加えると、私は以前事務の仕事をしており、電話対応の経験も多くある。マナー的にも発話的にも失礼を言うようなことはなく、特別電話相手からひどい目に合わされた経験もない。(無意識に記憶を抑圧しているのでなければだが。)
にもかかわらず、「電話をかける」ことへの恐怖感が強く、生活上の支障になっている。
今回はこの恐怖の要因について、やや細かめに考える。
Ⅰ 社会的立場の弱さ
一つには、自分の社会的な立場の差がある。
企業・団体などで電話対応をしている社員に比べ、「不登校」・「ひきこもり」だった私の社会的立場は弱い。
『ひきポス』の記事では、無職の状態から「アルバイトの面接をとりつけるために電話する」例を出している。これなどは、特に自分の社会的な立場(権力)が相手より劣っているケースだ。
仮に自分が会社役員であったなら、電話をかける恐怖感はやわらぐと思われる。また、電話をかける相手が幼児であれば、仮に乱暴な言葉遣いをされてもさしたるダメージにはならない。恐怖のポイントは、話の内容や言葉遣いよりも、相手との格差によって生じているのではないか。
他の『ひきポス』の記事でも電話恐怖症にあたる記述があり、ぼそっと池井多さんの感覚はこれにあてはまる。
ここでは、ホテルの部屋で自殺することを考えたものの、予約の電話をかけることができなかったために挫折する。ホテルに就職するような若い女性の受付に対して、自分は無職の恥ずかしい人間だという想念が、この電話恐怖に影響している。
Ⅱ 固有感覚の喪失
オリヴァー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』(早川書房 2009年)には、身体の感覚がなくなった患者の例が紹介されている。身体的にはケガも障害もないというのに、脳の働きが損傷したことで、「からだがなくなった」と訴える。自ら身体を動かすことがはなはだしく困難になり、治療の方法もわからない。たいていの人は普段「右手」を意識することもなく「右手」があり、「右手」は「右手」としての身体の固有感覚をもっている。しかしこの患者の例は、固有の感覚をまるごと失くしている。
以下は患者自身の発言。
『固有感覚というのはからだのなかの目みたいなもので、からだが自分を見つめる道具なんですね。私の場合のように、それがなくなってしまうのは、からだが盲目になってしまったようなものなんですね。』(p98)
私は電話をかけるとき、心理学でいう「離人(りじん)」や「乖離(かいり)」にあたるものを起こしているように思う。そして固有感覚の喪失に通じる何かが起きているのではないかと疑う。
むしろ、平然と電話をかけられるというのはなぜ可能なのか。声の情報のみでやりとりしている時、声以外の身体はどうなっているか。通話中の目線のやり場や手足の動きを、私の身体は発明していない。
電話をかける行為の中には、固有感覚を喪失させるような恐怖がある。電話をかけることは能動的なので、病魔のようにいきなり襲いかかってくるのではない。自らこの喪失状態に飛び込まねばならない。自分から難病になりにいくようなものであり、それを恐れるのは当然だ。人と会う時に目隠しをせねばならないというなら、誰だって怖さが生じるのではないか。
一つのたとえだが、ジェットコースターやバンジージャンプが好きという人がいる。私はそれらも怖いと感じ、特にやりたいとも思わないが、大好きな人は誘うかもしれない。「たった数分のことだし、失敗することはない。そんなに怖がるなよ?」と。しかし、そのアドバイスは完全にまとはずれだ。時間の短さや成功の確率は問題ではなく、人によって恐怖の度合いは異なっている。
バンジージャンプが好きな人でも、ロープなしでいきなり谷底に突き落とされるのは嫌だろう。無事だったとしても、自身の身体が操作できず、どうなるかわからない状態におかれることへの危機意識が、防衛として恐怖感を生じさせているのではないか。
私は冗談でなく思うが、身体の固有感覚の喪失を起こすという点で、電話とバンジージャンプには共通したところがある。バンジージャンプといっても、ロープがあるかどうかわらかない状態での、娯楽になりえないジャンプだ。
Ⅲ 退路表現のなさ
私は大企業の社員に電話をかけるくらいなら、直接ビルに乗り込んで受付でアポをとる方がマシだ。対面でのやりとりの方は緊張するが、電話ほどの恐怖はない。
生身の人間が相手であれば、情報は大量にある。相手を警戒することで生まれる立ち位置の距離感、建物や空間の制約からくるちょっとした間やテーブルなどの障害。さらに「目をそらす」「顔をそむける」「まばたきを増やす」といった、関係性をコントロールするための微細な動作が無数に可能だ。このような動作があることで、近づきすぎた相手から距離をとることができる。
対面での会話なら、相手の発言に対して「唖然とする」「絶句する」「呆然とする」という身体的な表現がある。驚きによってまぶたが開き、唇があけっぱなしになる「顔」がある。だが電話では、いずれも一律の沈黙になってしまう。それでは何も感じていないことと同じだ。相手の対応に愕然とさせられるような何かがある時、電話では意味のある言葉の声によって表明するしかない。
つけ加えると、声だけでは「嘘」の微調整のようなものができない。コミュニケーションの中には、「ありがとうございました」と言いながらたいしておじぎしていないとか、「目が離せません」と言いながらそっぽを向いているとか、動作によって言葉を半分嘘にできる技能がある。しかし電話では、言葉だけが意味となって伝達される。言葉と動作は共犯関係で人との関係をつむいでおり、その半分がなくなるというのは、情報伝達の手段として恐ろしくないか。
この点で、まだテレビ電話の方が好ましい。「頭をかく」「腕を組む」「けわしい表情をする」など、平面的な映像から伝えられるものが多い。
声のみの電話であっても、あえて「会話をうまくいかなくする」手段があれば余裕が生まれるのかもしれない。意図的に電波を弱くできるとか、特定のタイミングで声を遠させるとか、剥き出しの情報伝達にノイズを組み込めれば、精神的に楽になる可能性がある。
以上
〈電話恐怖症〉については、また時宜があればまとめる。