愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

あいちトリエンナーレ2019 展示されていない作品を鑑賞していない記録・写真30点

 先日、「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」を鑑賞した。名古屋に一泊し、愛知芸術文化センター名古屋市美術館、豊田氏美術館と、四間道・円頓寺といった主要な会場を周遊。トリエンナーレにふさわしい現代アートの祭典であり、先端的な刺激に満ちていた。名古屋駅周辺の会場は、歩いて回るには遠すぎ、電車移動には近すぎる微妙な距離だったが、その不便さの体験も含めて旅の記憶となるもので、日常から離れる悠々とした時間を過ごすことができた。

 

 愛知芸術文化センターは、今展の中心的な会場となるもので、巨大な作品をどっしりと受け止めながら、高級感のある洗練された建築を誇る展示空間だった。いくつかの作品は、メッセージとしては社会への異議申し立てを含みながらも、華やかな「インスタ栄え」向きのとっつきやすさがあり、何人もの鑑賞者がスマホのカメラ音を出しながら歩き回っていた。

 

 以下には、「あいちトリエンナーレ2019」で個人的に最も記録すべきだと思った空間の写真数点を載せる。つまり、「表現の不自由展・その後」展示中止にともなう非インスタレーション、および美術館の物理的な意味での壁である。

 

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 きわだって諷刺的な作品だったのは、バルテレミ・トグォの「西洋のゴミ箱」だった。名古屋市美術館の周辺に点在するゴミ箱に、アフリカ諸国の国旗がプリントされたビニールのゴミ袋が使われている。これがもし「日本のゴミ箱」のタイトルで、韓国国旗を含むアジア諸国の国旗がプリントされ、通行人が実際にゴミを捨てられる参加型の作品であったならどうか。風によれてくたびれたビニール袋のチープな存在に、歴史問題の深淵を覗かせる「穴」がぽっかりとあいている危険な展示物だ。

 

 また、藤井光による出色の映像作品は、過去の日本の植民地支配時代を実録のフィルムとともに鑑賞させるもので、歴史認識の射程を伸ばさせる、力のある展示空間を作り出していた。それは一人の少女が椅子に座っている、という安穏さとは完全に別種の、はるかに現代アート的な試みに満ちた切れ味を持つものだった。

 

 パンフレットに掲示された名古屋市美術館の標語は、「私たちの社会を不寛容から救うために」という皮肉な文言となっている。不自由展の中止は、今展に影を落としている……どころではなく、何人ものアーティストたちの展示拒否が示すように、はっきりとした傷になっている。私が思うに、今回の事件は「あいちトリエンナーレ」の100以上あるプログラムの内のたかが一つが中止に追い込まれた、という小さな出来事ではない。現代の日本ではっきりと「自由」がおびやかされ、特に韓国に対する攻撃性があらわになった、現代を象徴する事件だった。今回のことが止められない無力さは、戦争が止められない無力さの事態と地続きにある。そのうえ安倍政権の支持率がここにきて上がっている、という、私には理解できない(、のではなく正確には理解したくない)情勢が、胸糞の悪い、臓腑から意気消沈させるような落胆を引き起こしている。

 どうすればいいのか・どうあればいいのか、という苦渋の問いに対しては、あいちトリエンナーレ開幕前から用意されていた津田大介氏の挨拶文がすでに解答となっている。『いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。』

 「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」は、攻撃的な「情」を打ち破ることができたのか。今展に対する私の最終的な印象として、以下に美術館内の写真を提示し個人的な旅を終える。

 

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   note版

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【諷刺家ファイル】日本の戦中・戦後の画家たち 河原温・中村宏・石井茂雄・浜田知明

 

 このブログは詩や1コマ漫画などさまざまな形式の記事を出しているが、元々は趣味の諷刺研究のアウトプットに使うという目的があった。諷刺家については、以前ツイッターで「諷刺作家備忘録101」をやり、101人分のリストがある。今回はそれらのまとめの一つとして、「日本の戦中・戦後の画家たち」4人を取り上げる。リストの70~73番にあたるもので、個人勝手な酔狂である。

 

 

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諷刺家ファイル No.70 河原温

 河原温(かわら おん 1932‐2014)はコンセプチュアルアートの巨匠として、国際的な評価が極めて高い。しかし傑出しているのは50年代のドローイングで見せた戯画的かつ悲壮な人物造形で、恐ろしいほどの痛切な極地へと至っている。特に「浴室」の連作は、人間関係の血みどろの赤裸をあばいたもので、一人の人間にこれほどまでの悲しみがありえるのか、と驚嘆する。

 私は国立近代美術館で「浴室」連作を直接鑑賞する機会があり、深く重いタッチを味わうことができた。

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 本物の画集(「ON KAWARA 1952-1956 TOKYO」)はプレミアがついて数万円の値段になっている。上記は図書館でカラーコピーをとらせてもらったものの一部。

 


諷刺家ファイル No.71 中村宏

 1932年生まれの画家。銃とヘルメットが構図の大部を占める「基地」(1957)は、黄色がかった土色が視覚に染みる。社会的な主題が現代絵画を抽象に遊離させず、喫緊の問題として眼前に置く。シュルレアリスムの影響のある、悪夢的なまがまがしい構成とタッチが印象的だ。
 なお、80代半ばを越えても個展を開いている現役の芸術家である。

ANPO [DVD] 

 アーティストたちの貴重な証言が聞ける映画「ANPO」のジャケットに中村氏の作品が使われている。当然本人も語っており、他にも版画家の風間サチコ等が出演。力のあるドキュメンタリーだ。

 

 

諷刺家ファイル No.72 石井茂雄

 石井茂雄(いしい しげお 1933-1962)は日本の画家。抑制されたモダニズムを見せるエッチングや、人間がモノにさせられる痛切な油彩画がある。冷たい建築群の中で個人が圧制を受ける、魂の蹂躙の現場を絵画によって記録した。集団主義と科学発展によって建造された、20世紀の地獄が描かれている。

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(※ 画像は「ANPO」公式HPから失敬した。)

 


諷刺家ファイル No.73 浜田知明

 浜田知明 (はまだ ちめい 1917‐2018)は日本の版画家。中国大陸での兵役が生んだ「初年兵哀歌」の連作は、「虫けらのような人間」ではなく「人間のような虫けら」を描いている点で、カリカチュアではなく異形の写実である。実体験を反映させた後年の作品には、自身の病状をユーモアに昇華している。

 2018年の3~4月に、町田市立国際版画美術館で回顧展があり、私は初めて生で作品を鑑賞した。しかし同年の7月に作家は101歳で死去。浜田氏が私の記憶の最後に残したのは、現役作家としての孤高の作品だった。

 

人と時代を見つめて―浜田知明聞書

 

 

 タグ 諷刺家ファイル

 

【現代詩】 誤答(終戦は終わった)

   誤答

何人までが殺人で
何人からが英雄か。
どの線までが愛国で
どの線からは敵国か。

ひらがなでかかれていたつちのうえ
カタカナにさせるアノデキゴト。
文字にならない声を集めて
歴史のマス目は埋められた。

テストのために子供たちは
正確な偽書を暗記していく。
(うるわ)しく縫われたくちびるで
新品の沈黙を語り継ぐ。

全滅ではなく玉砕をして 
退却ではない転進をして 
占領ではなく進駐をして 
敗戦ではない終戦は終わった。

過去がいかなる素数であっても
まっすぐな隊列は割り切っていく。
大きな答案用紙のために
子供たちは偶数に召される。 

ここからあの経度までは自衛。
ここからあの数字までは英霊。
若さが完遂させられる明日を
親ゆずりの教師が指導する。

私の立っている位置は
私の足裏にあるものの上。
あなたから私までの距離は
私からあなたまでの距離。

どうかこの無学な体温が
添削されませんように。
いつか巨大な正しさを前にしても 
私たちは慎重に
なおかつあらんかぎりの力をもって
小さな誤答ができますように。

 

 

 

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