愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【本】芹沢俊介著『「存在論的ひきこもり」論』 「ひきこもり」論の歴史になるべきだった一冊(5000字の概要付き)

私は「ひきこもり」と言える孤立した十代を過ごし、人との関係を結ぶことに多大な困難を抱えながらも、二十歳の頃をシューレ大学というオルタナティブ・スクール(フリースクール)で過ごした。

シューレ大学は社会通念的なガッコウのカリキュラムと違い、各講座に好きなように出席(そして好きなように欠席)することができた。

その中で月に一度だけある講座に、芹沢俊介さんが講師となってディスカッションをおこなう「家族論」があった。

当初私は芹沢さんがどのような人かをまったく知らなかったが、しばらくして家族問題や少年犯罪の論考に関して日本を代表する評論家であり、年数冊のペースで著書を出している在野研究者だと知った。

芹沢さんの著書で、当時出版された本が『「存在論的ひきこもり」論』だった。

 

その紹介を、『ひきポス』というウェブサイトで出した。

www.hikipos.info

 

記事を執筆したきっかけは、出版社の雲母(きらら)書房が何らかの理由でなくなり、新品が手に入らなくなったことを知ったためだ。

『ひきポス』の記事ではわかりやすくするために倒産したものとして書いたが、私は一出版社としての名前しか知らず、出版人も閉社の経緯も知らない。

 

『「存在論的ひきこもり」論』は、日本の「ひきこもり」論の、もう一つの歴史になるべき本だった。

現在の歴史の本流は、「ひきこもり」に対する否定的なまなざしからなる援助態勢だろう。

だが「ひきこもり」が当人(私)にとって苦悩的に深化するのは、否定的なまなざしがあることそのものによる。

「ひきこもり状態」を脱却させようとする奮闘も、斎藤環氏等による「社会的ひきこもり」の概念も、その否定的なまなざしを強め、当人にとって逆効果になりうる。

『「存在論的ひきこもり」論』は、否定的なまなざしを戒め、「社会的ひきこもり」論よりはるかに多層的な視点を与える思想だ。

しかし、斎藤氏の本は先日22年ぶりの改訂版が出されたのに対して、本書は出版社閉社により消滅の危機にあるという対照的な展開となっている。

 

このページはほとんど訪れる人もないWEB上の僻地だが、せめて書物の概要を記すことで、記録と記憶にたむけるわずかな石積みとしたい。

 

   書籍情報 

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

存在論的ひきこもり」論 わたしは「私」のために引きこもる
芹沢俊介著 雲母書房 2010年9月5日初版発行 267ページ

 

   目次 
はじめに―肯定性へ向けての新しい道筋 

Ⅰ 「ひきこもり」がなくなるとき p7

否定の視線について
幸福の条件をめぐって
存在論的ひきこもり」論
長期に引きこもっている人が家庭内殺傷事件を起こしやすいのか 

Ⅱ 二〇〇〇年代とひきこもり p123

引きこもる若者たちをとりまく今
本や映画から「ひきこもり」を読みとく
『IRIS』編集局インタビュー・しんどいけれど踏みとどまって考える 

Ⅲ 否定的「支援」の身勝手さ p167

「支援」についてのノート
「善意の道は地獄へ通ずる」ということ
長田塾事件裁判への意見書 

Ⅳ 「ひとり」の深さについて p217

ニート社会学;「ひきこもり」と「アノミー
人はひとりで生きていかれるのか
文学のなかのモラトリアム青年

あとがき
初出一覧

 

存在論的ひきこもり」論」読書メモ

※以下では、直接的に「存在論的ひきこもり」論を述べた46~102ページのおおまかなメモを上げる。実際は「です・ます」調で書かれているが、簡略化した文体で記す。各項目の数字は筆者が便宜的に付けたもの。  

 

   「存在論的ひきこもり」論 ——引きこもることの意味

 

  1 「存在論的ひきこもり」の定義

 

・「社会的ひきこもり」から「存在論的ひきこもり」論に転換させる作業を進める。「存在論的ひきこもり」は、まず何よりも引きこもる本人を主軸にした考察である。

 

『「社会的自己」の回復には、傷ついた「存在論的自己」の回復が先行しなければならない。』(p49)

 

・引きこもることは、本人にとって『人生上の一時期を構成する不可避的ないし必然的な』ことであり、『否定的経験などではなく』『人生の次のステップに進むための大切な基盤となりうる』

 

  2 厚生労働省の定義の物足りなさ

 

厚生労働省の定義をまとめると、「ひきこもり」は「さまざまな要因によって自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」となる。斎藤環の定義よりも冷静な把握になっている。しかし根本においては否定的である。ある自治体はこの厚生労働省の定義に立脚して、「ふたたび社会生活へ参加する」ための対策を述べている。これは「ひきこもり」状態をプロセスではなく固定的にとらえたもので、本人不在のかかわり方をしている。

 

・支援は、「そのあるがままにおいて」受けとめること(=肯定)が第一義的なテーマであると考える。「ある」かかわりではなく、上記のような当事者がゴールを設定して取り組んでいくなどの「する」かかわりには限界がある。

 

  3 厚労省の『ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン』について

 

厚労省の『ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン』(2010年5月)では、「ひきこもり」が「支援の対象」であると言い切っている。これでは問題がある。まず、ここでの「ひきこもり」とは「社会的ひきこもり」である。本人不在の、「する」を中心にした理解である。また、精神障害に引き寄せた精神科医たちによるアプローチであり、内在的な把握がなされていない。

 

  4 「プロセス」という視点

 

・ ① A→B 引きこもることの往路
  ② B 引きこもることの滞在期
  ③ B→C 引きこもることの帰路
『「ひきこもり」には、プロセスがあるということ、すなわち変化をはらんだ動的な現象が「ひきこもり」であるということです』(p60)

 

・「引きこもるということにはプロセスがあるということ」と、「引きこもるプロセスにはそれぞれ固有のテーマがあるということ」。これが「社会的ひきこもり」の否定的位置からは光があてられていない。

 

厚生労働省の『ガイドライン』には「ひきこもりの諸段階」という記述があるが、当事者に即して内在的に考察しているのではない。あくまで「精神障害」の様相として外から記述している。

 

  5 自己の二重性

 

・「存在論的ひきこもり」論の構築に向けて、『一個の人間を「ある自己」と「する自己」の二重性として理解するということです。厳密に申せば、「ある自己」が基底にあり、その上に「する自己」がのっているという構造です。』(p65)

 

・「する自己」は、その人の社会的な役割としての自分と結びついている。なにかを「している」・「できる」・「たずさわっている」、社会的な自己にあたる。

 

 ※「する自己」の「する」には大きく分けて3つある。(1)社会的な生産行為としての「する」(労働、結婚=家族=出産)。(2)社会的・言語的なコミュニケーション。(3)日常の動作としての「する」。

 

・赤ちゃんは「ある自己」から「する自己」へと向かっていく。それに対し、老人は「する自己」の世界が縮小し、「ある自己」へと移行していく。

 

・引きこもることは「する自己」からの撤退と理解できる。「ある自己」という視点を持たない「する自己」本位の社会では、老人や障害者は人間ではないという、言わば優生思想の考え方に帰着してしまう。

 

  6 先行する「ある自己」の危機

 

・命題

『 第一は、「する自己がよく自己を発揮できるためには「ある自己」が安定的でなければならないということ。つまり「する自己」は「ある自己」のあり方に規定されているということ。

第二は、「する自己が縮小化された状態において「ある自己」が表面に露出するということ。

 第二の命題に、次のように付け加えたいと思います。

 「する自己」の縮小化は、「ある自己」の危機が先行しているということ。』(p70)

 

・職場で問題のあったAさんは、退職して自宅にひきこもるようになった。一般的には転職すれば「する自己」が可能だと理解されているが、それでは単線的だ。

人間には「ある自己」という基底があり、Aさんは「ある自己」がこれ以上損傷することをおそれてひきこもった。

 

  7 「する自己」と「ある自己」への承認

 

・引きこもりが「弱さ」だという批判は、人間を「する自己」のみでとらえる問題外の発想だ。

 

『「する自己」が「ある自己」に支えられている関係というあり方からするかぎり、「ある自己」の不安定化や損傷の危機において、「する自己」は自らを縮小化するという対し方でもって応えることは、少しも不自然なことではありません。』(77p)

『引きこもるということにおいて、「存在論的ひきこもり」が先行し、「社会的ひきこもり」はその後に続いているのです』(同)

 

  8  内なる「環境と他者」への信頼

 

・「ある自己」をこれ以上損傷させないために、「する自己」が撤退する。この動きを『引きこもることの往路』と呼んできた。これは単なる撤退ではなく、同時に「ある自己」の安定を得られる場を求めての行動でもある。

 

・一般的に「ひきこもり」と呼ばれる現象は、「引きこもることの滞在記」の一場面に過ぎない。「ある自己」の自己修復、自己治癒、休息が、「存在論的ひきこもり」からみたときの、引きこもることの滞在記のメインテーマとなる。

 

・「ある自己」がどのように損傷をこうむれば引きこもる行為として現れるか。『私なりの答えを示せば、「ある自己」を成り立たせていた内なる「環境と他者」への信頼ということになります。』(p81)

「環境(居場所感)と他者(具体的な関係存在)」は人間関係を安定的に取り結ぶための原型となるもの。

 

『外部の未知の「環境と他者」を迎え入れるのは、母親との関係を原初に、これまでの人生において「ある自己」の内部に培われた「環境と他者」への信頼です。』(p82)外部世界を迎え入れる「受容器」が損なわれたとき、迎え入れ不能に陥ってしまう。ここに引きこもることの根源的な理由の一つを求めたい。

 

 自己治癒すべき傷は、内なる「環境と他者」への信頼性の回復であり、損傷した「ある自己」の再生。

 

  9 「ある自己」が修復に向かう一歩

 

・この論考での自己の二重性の把握と、「環境と他者」という概念をウィニコットから貰っている。

『子どもはだれかと一緒のとき、一人になれる』(D・W・ウィニコット『遊ぶことと現実』)。

「一緒のだれか」とは子どもの信頼の対象であり、特に最初に現れるのは母親。

受けとめ手と「一緒」にいることで、子どもは受けとめられ体験をくり返し、他者を信頼の対象として内在化していく。一個の「ある自己」の誕生といってもいい。

信頼の対象を得ることで、子どもは「一人になれる」、すなわち自分という存在の自在感を獲得できる。

この言葉は一般的な命題に広げられる。

『人が自在感、自由感、自立感を得られるのは、そこに「一緒のだれか」がいるからである。』(p86)

 

・さきほどのAさんの例は、信頼の対象となる「一緒のだれか」を得られず、孤立してしまった。「ある自己」を構成していた「環境と他者」に深い損傷を与えた。

 

・引きこもるという行為は、「ある自己」が損傷し、崩壊の危機に瀕したことが、引きこもることの往路の契機だ。それは同時に「ある自己」の治癒に向かう第一歩でもある。「ある自己」の修復・治癒に引きこもることの滞在記のテーマを求めてもいいだろう。

 

  10 滞在記における家庭の役割

 

・受けとめ手の欠如が、滞在期特有の難しさになる。幼少期であれば両親への〈甘え―甘えられ〉る関係ができやすいが、子ども期を脱した年齢では成立しづらい。理由の一つは引きこもる当人に対する身内(特に多いのは父親)の拒否感。そして引きこもっている本人の抵抗感である。

・一度「する自己」を構築していながら、もう一度受けとめ・受けとめられる関係になることに抵抗がある。

 

  11 自己間関係における課題

 

・親が引きこもる我が子の願いを受けとめた場合、本人はすみやかに「ある自己」の修復・治癒の過程に入ることができる。

 

・引きこもるという行為には、「引きこもっている自分を否定する自分」の葛藤があり、単に他者との関係だけでなく、自己間関係がある。この「もう一つの関係」によって、「社会的ひきこもり」観からは決定的に区別される。

 

・自己間関係の課題は、受けとめ手がいない現実をふまえた、本人自身の自己受けとめが課題になる。その難しさは、本人に「ある自己」としての自分という視線がもてないためといえる。不能な「する自己」に葛藤しており、仮に第三者の助力を得ても、「する自己」の社会参加によってさらに「ある自己」が傷きかねない。

 

・「『ある自己』という他者」の損傷が、「する自己」からの撤退であることを認識する。それが自己をまるごと受けとめるうえで重要となる。

 

・親が引きこもる我が子の願いを拒絶した場合、引きこもる本人は「ある自己」を否定されたまま親のもとに引きこもることになる。「する自己」だけが自己だと考え、「ある自己」の修復にむかえないことは、「ひきこもり」期間の長期化をもたらす。

  

  12 「背筋が通る」瞬間

 

・自己間関係は、「する自己」と「ある自己」のあいだの、他者性をおびた対話であり、自己受けとめへの道だ。

この対話の第一の目的は、不能になった「する自己」を、「ある自己」において肯定すること。そうすることで、「する自己」が「ある自己」の修復を先行させることが、自己にとってももっとも件名な対応であることを自ら了解する。

・「ある自己」は「する自己」という他者にまるごと受けとめられることによって、ふたたび内部に「する自己」という信頼の対象を得ることができる。

 

・受けとめの過程は以下のようになるだろう。

 ①「する自己」による「ある自己」の受けとめ・肯定すなわち「する自己」による「ある自己」への配慮。

 ②「ある自己」の修復・治癒。

  「ある自己」の内なる「環境と他者」の再構築。

 ③「ある自己」による「する自己」の肯定・受けとめ。

 

  13 《引きこもることの帰路》

 

・滞在期が終わりにさしかかると、分裂した状態にあった、「する自己」と「ある自己」の結びなおし(「背筋が通る」)が起きてくる。「ある自己」が「する自己」の支えてになれる状況が再度出現する。

 

・帰路は過去の「する自己」の再現ではなく、新しい社会性の構築の試みがはじまる段階としてとらえたほうがいいだろう。

 

  14 存在論的な支援のあり方

 

・引きこもることがプロセスであるなら、援助・支援もそのプロセスごとの特徴に即したものでなくてはならない。

 

・往路の援助・支援は、引きこもろうとする「する自己」を妨害しないことが基本になる。滞在期へのすみやかな移行を支える。

・滞在期の援助・支援は、引きこもる本人の自己間関係の姿を「見守る・待つ」こと。

 「見守る・待つ」の大きな意味は、一つは本人に否定的対応をしないこと、そして「いつまで待てばいいのか」という否定的な姿勢もなく、「どうなるかわからないけれど、本人にゆだねてみよう」という対応。

・「見守る・待つ」ためには、親自身の自己受けとめが課題になってくる。

「甘やかしていいのか」と問う人に対しては、「甘やかせられる」ことが家族の力であり、愛であると応じたい。

 

  15 帰路の援助・支援

 

・帰路の援助・支援は、社会参加に向けた積極的な情報提供をすることが効果的な時期となる。しかし往路→滞在期→帰路を選ばない例もあるのかもしれない。

 

 

   以上 

 

 ご覧いただきありがとうございました。