愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【断想】傷口を舐める舌の動きが発話の起源だとしたら

この舌には棘だけが生え伸びる
薔薇もなしに

 

身体のハードに無理やり適合させて再起動した
本当は互換性のないソフトウェアみたいな自己

 

自分が自分を人質に取って自分を恐喝する試みに
やっと成功したとき三人の自分が被害者になっていた

 

狭小な新疆自分自治区に対して実施されてきた
他人という大国が主導する教育推進計画の完遂

 

過去と未来のあいだで猛烈に痙攣するジストニア
定位される現在は自分でないもののあいだを被災する

 

記憶の女神が紗で大理石をなでる
追想は永遠でしか痛哭を研磨しない

 

他人に亡命しているほかなかったわたしを
不法移民だと密告した言葉は母国語だった

 

人は理解できないものを畏れて殺す
それがたとえ自身にあたるものでも

 

眼の岩盤を掘り返し涙を見い出そうにも
悔恨はすでに老いの地層に埋もれている

 

冠水した精神が衰弱死し
肉体は旱魃にあっている

 

舌の土壌になじまない異国の産物のように
言葉を出荷させられない不作の枯れ草ども

 

お前の発話した時の歯列で
食いちぎられたわたしの耳

 

敵国が外戦する地で
私に言語が敗戦した

 

私が自身の当事者である以前の段階で
あなたが私の当事者だったことが敗因

 

巨悪が独裁者ではなく凡人によって起こり
大義が英雄でなく凡人によって果たされる

 

女装者が女性のしぐさに秀でるように
常人を装う常人のしぐさが常人を凌ぐ

 

そして民衆は叫んだ
そして国は聾だった

 

進歩的文明の喧噪によって
民衆は神の声に難聴となった

 

精神的近視と精神的遠視が
同じ主張に反対しあっている

 

世界の歴史になるべきだったある人が
家族の歴史を担えないせいで逝った

 

人類の恒河沙(ごうがしゃ)の嗚咽に
釈迦は耳垢が詰まってしまった

 

西の巨人にとっては橋
東の小人にとっては壁

 

湿地の小石を裏返して幾匹かの小虫が這い逃げるように
悔恨の名後る子供心の裏地にも暗い窪地がよどんでいる

 

小さな動物が倒れた仲間の傷口を舐める
そのときの舌の動きが発話の起源だとしたら

 

誰か薔薇の根について歌え
花や香りや色彩の歌ではなく