愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【本】詩人・最果タヒさんの魅力は?

 某取材にて、詩人の最果タヒさんについて聞かれる機会がありました。

一部は『ひきポス』(https://www.hikipos.info/)の記事に活用しましたが、多くは未使用だったので、当ブログで掲載します。

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 ―—最果さんの詩を読むようになったのはいつからですか?

 

数年前の、20代後半からのことです。

新しい詩人を集中して読んでいった時期があり、その中の一人でした。

読む前の印象は「若い女性に人気の人」くらいのものでしたが、現代詩のなかで、いま生きている言葉を使って高度な作品を書かれていると思いました。

私は元々詩を書くこともあり、新しい言葉の表現は常に気にかけています。

本格的に詩の読書と執筆を始めたのは二十歳くらいの頃からです。

 

小説に比べ、詩が注目されづらいことは残念ですね。

歴史的には「文学」といったときに、小説以上に詩を指して使われてきました。

現役の日本語詩人たちも、面白い人がそろっています。

中原中也賞はとても良い選出をされていて、最果さんと近い時期だけでも、三角みず紀さん、文月悠光さん、水無田気流さんなど、もっと読まれるべき方々を見つけてくださっている。

本来、詩の言葉は今よりもさらに、生きていく人の精神にたくましさを与えるうるものであると思います。

 

 

 ―—最果さんの詩のどんなところが好きですか?

 

ラフな語り口のなかに、はっとするような驚きを与えてくれるところです。

人間関係や、普段心にとじこもっている部分を、最果さんはあざやかに気づかせます。

作家の高橋源一郎さんは、「文学史上の変化は、その時代の口語的表現から来る」と言っています。

書き言葉が表現の限界にたどりついて、天上がつっかえているような状態になる。その時代に、それを突破するように口語的表現が現われる。そのくり返しが文学史だ、と。「現代詩手帖」の高橋源一郎特集号での発言です。

吉本ばななさん、俵万智さんなども、軽い口語的な表現によって、日本語に新境地を切り開いてきました。

外国の古典でいうと、ダンテの『神曲』もイタリアの俗語表現によって書かれたものです。もっというなら、『聖書』のイエスの言葉も、洗練された都会の言葉などではありませんでした。

最果さんもまた、現代の若者が使う口語で、カジュアルだからこそ到達できるものを生み出していると思います。

 

―—好きな詩はありますか?

 

いくつもあるのですが、強いてあげると、『死んでしまう系のぼくらに』に収録されている「LOVE and PEACE」です。

『生命は尊いというひとたち。愛情は尊いというひとたち。そのひとたちにとって、生きていないひとは尊くなくて、すきじゃないひとは尊くないのかな。きのうはバスにのっていて、いろんなひとが席を取り合っていた。あしたからはもうバスにのりたくない。いろんなひとの悪口の、思い合いが窓をにごらす。』

この場合は「尊い」ですが、何かを「良い」というのは、言う人にとっても聞く人にとっても良いことのはずです。けれど、それだけではおしまいにならない。

「良い」といったそれ以外のものはどうなるのか。最果さんは「良い」という肯定のなかにも、良くないことがある、という否定的な態度を忘れません。

それはマイノリティやダイバーシティという流行の言葉とも会うのかもしれませんが、もっというなら、文学が描いてきた、「忘れ去られた人々」や「語られなかったもの」への哀惜の視点ようなものが含まれていると思います。

そこに、くり返し読むに耐えるだけの思想がまざり、読み流せない文学の強度が生まれているように思います。

 

個人的な読み方として、上記の詩で出てきた「バス」の比喩について少し話したいと思います。

きのうはバスにのっていて、いろんなひとが席を取り合っていた。あしたからはもうバスにのりたくない。いろんなひとの悪口の、思い合いが窓をにごらす。

「バス」は日常的でありふれた乗り物です。

しかし「バス」=「同じ境遇に居合わせた人たちが、狭い箱の中にいる」状態、というようにイメージを広げて、私は「学校の教室」という見方をしました。

入学から卒業までの年月を移動していくなか、そのバスに「あしたからは乗りたくない」=「学校に行きたくない」と思っても、なかなか降りることはできません。

そうなると、「悪口」は、言い合うものではなく、クラスメイト同士の「思い合い」としてあります。

「悪口」は教室の空気を読んだうえでの、同調圧力として機能している。

「窓」がにごる、というのも、「窓」は教室の窓かもしれず、将来を見据える目のレンズという「窓」かもしれません。 

 

―—どんな時に最果さんの詩を読みますか?

 

これという機会があるわけではないのですが、強いて言えば、自分の心が緊張しているときでしょうか。

世の中には硬い言葉、緊張を強いる言葉、会計のための数字の言葉、効率や生産性のための言葉がたくさんあります。

その中で、最果さんはまるでSNS上の友達ように、「これってこうだよな」とつぶやき、ほっと自分が慰められる、そのような肩の力を抜く言葉があります。

私は太宰治私小説を読むと、飲み屋で肩に腕を回されて、酒臭い息でがつがつこられているような気分になります。

距離が近く、「俺にはこんなことがあってさあ!」と、体温をもって自分事を語る感じです。

最果さんの読書の場合は、直接飲むのではなく、ちょっと距離があったうえでの、他人事のようなつぶやきです。

それは現代のツイッターなどの言葉のように、あさっての方を向いている。

けれどそれは間違いなく自分に読むことをさせる言葉で、この言葉の角度が、とても現代とマッチしたものだと思います。

 

―—『ひきポス』の記事に「『生きづらさ』には現代詩が必要だ」とありました。それは現代詩がどのようなものだと考えられたからでしょうか。

 ※以下の記事

www.hikipos.info

 

最果タヒの何を読むか」、ということとともに、「最果タヒ以外の何を読むか」、という問いがなりたつかと思います。

現代詩の特徴は、それまでの歴史的な詩に比べて、「詩語(詩の言葉)がないこと」だと言われています。

愛を薔薇にたとえたり、苦しさを山にたとえるような、伝統的な比喩や言い回しが、パロディでなければ用いられません。

それらの言葉はもう古く、言ってしまえば使い物にならなくなってしまっています。

今、スマホを片手でいじりながら読むのにふさわしいのは、シェイクスピアの大楊さやゲーテの名言ではなくなっています。

大量にスワイプしていくフラットな言葉の流れに合い、生きづらさや苦しさを含めて表現するためには、最果さんくらい「軽い」言葉がふさわしい時代となっているように思います。

 

   以上