愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【断想】耳の祭

 

耳までの距離に
舌がすくむ

 

私の言葉を訳せるようなら
それは私の言葉ではない
私の声が聴こえるようなら
それは私の声ではない

 

口が堅いのはいい
鼻が堅いのはまだいい
耳が堅いのはいけない
目が堅いのはもっといけない

 

口先だけの人がいるように
耳先だけの人がいる

 

醜聞
蠅となってたかる鼓膜の群れ

 

耳の玉座に口が座り
子供たちが顔を貢ぐ

 

耳管がないときに
時間は一日とたたない

 

開く窓口
閉じる耳

 

命からがら口を抜け出した言葉が
人々の耳の岸辺で息絶えている

 

舌癒す耳あり
舌むしる耳あり

 

権力が口を殺めて
道連れとなった耳

 

口の失せた根源的な寂に
訪れた遅すぎる耳の旅人

 

一つの耳がなかったために
大量の口が無駄死にした

 

語りの浸水が水位を上げても
たったひとすくいしかできない耳

 

一つの唇が専有して
他の声が耳にありつけない

 

語るにふさわしい口がなくとも
聴けるにふさわしい耳よあれ

 

友が催す
耳の祭
黙への
ことほぎ


誰かぼくの顔を見ませんでしたか?
あるときぼくの鼻が小さくなって
家出して遠のいていきました
それを追った口が戻らなくて
嫌になった目は夜逃げ
両耳は無理心中
ぼくは張り紙を出して
どこにもない顔を探しました
あいつは分かれた鼻じゃないかと
あれはぼくの口じゃないかと
思ったところで見られないし
この顔ですといってものっぺらぼう
もしあなたの行ったことのない町に
聞いたことのない名前をした
誰からも知られていない子供がいたら
そこにぼくの顔があります
どうか声をかけてやってください
もう出会えないぼくの代わりに

 

 

【断想】子供の学名

 

名前の津波がやってくる
私はただ一人それを受け止める

 


一生をかけて
私たちは自分自身の喪主を務める

 


一度は意味であった稚魚たちが
成長した名前に放流されていく
いつかわたしの記憶が遡上して
手に負えない大きさで再会するまで

 


虚飾をまつりあげ
実名が逃げていった

 


大勢が教室で名前磨きしていた

 


金持ちは名前まで飾りやすい

 


大雑把な名前に収まらない微小な感情

 


達成したのは自分らしさよりも名前らしさだったくせに

 


命名が殺名でもあった

 


毛の生えた舌でものを云う

 


長年名前に座り込んで動かない人

 


死後の名声を前借りしている老大家

 


延名のための延命

 


人の偽名を褒める

 


教室で呼ばれる子供の源氏名みたいな愛らしさと隷属性

 


何も考えずに他の人たちに付いて行ったので
道に迷わなかったことを理由に優秀だとされている人

 


新卒が名前に採用される

 


公立の車線はまっすぐな分
降りた人がすぐ名前に轢かれる 

 


匿名の集合住宅地で匿名をまとい
匿名の顔で匿名を過ごす匿名人の夢は有名人になること

 


他人の足を模倣できるようなら
その子は自分の足で歩いていける

 


学者みたいにふるまえるのは
子供の学名を忘れられた人たち

 


私たちは偽名でしか出会わなかったけど
本当は同名だったのかもしれないね 

 


教科書を覚えて偽名を履修したら
皆さん卒業おめでとうございます

 


派手な名前で着飾った凡庸な意味

 


殺名という言葉が発明されるべきだった

 


及第したときにだけ呼ばれるようなら
その実名は偽名でしかない

 


親だけが名前を蔑称にできる

 


名前が孤児だったなら
すでに十分な孤児だ

 


大人は名前で食べられる
子供は名前に食べられる

 


詰問される生に囲まれた子供が
黙り込んでいる死の方を優しく思う

 


飼い連れていた名前が育ち
今では自分が引っ張られている

 


誰も私の実名を呼ばないんだってわかったとき
偽名が付けられている肉体をこそ亡くしたくなる

 


正しい駅に着いて間違っていると思う不幸と
間違った駅について正しいと思う幸福との対立

 


津波の中にも津波があり
私は陸地でも海に流されている

 

 

【断想】執行猶予無期(聴聞権の失効)

 

体中に口の生えた化け物が
一声もあげずに息絶えていた

 


言葉の暗夜に耳の炬火を掲げ
黙り込んだ幼子の顔を照らせ
立ちすくんだという聴聞権が
閉じられた舌を拓かせるまで

 


私は沈黙に呼ばれている
悲鳴より聞こえているものに

 


人は黙殺で二度殺せる

 


唖にはびこる聾

 


現行犯逮捕はいつも口
耳は共謀罪しか犯さない

 


判決・全者有罪として
執行猶予無期
和解でも無罪でもない日常を
穏やかな有刑で営みなさい

 


千手観音はわかったから千耳観音はいないの?
耳に埋め尽くされた全身で無量の嘆きを聞いてくれるだけの

 


鉄球サイズにふくらんだ鬱が
心臓めがけて死のストライク狙ってる

 


人々には悲鳴しか届かない
それは手遅れっていう証拠なのにね

 


体にやさしく脳にやさしく親にやさしく友達にやさしく地球にやさしく
やさしさのバリューセットで私は今度転校することになりました

 


少なくとも被害者になれなかったという被害者ではないですか

 

 

舌の引き金を引き
一名の耳を狙い撃つ唇

 


口の雑菌が繁殖するSNSキャンプ場
六秒前に軽蔑したから虚栄は十分
私も除菌液一つ持って侵されに出る

 


ショッピングモールの床にはたくさんの耳が落ちている
一方適応指導教室に落ちているのはわたしの口だけ

 


必死に相談したところで国から「仕様です」と聞かされるにべもない学齢期のプログラム

 


接続詞が関節技を決められて二の句が継げなくなる世間話

 


大人たちの饒舌な沈黙に
すでに諭され終わっている子供たち

 


正しい走り方を履修した証しとして
私は両足と松葉杖を抱えて通学する

 


歩き方を化粧した人々が駅を行く

 


耳のない群衆が歩き過ぎて
いつのまにかすられていた口

 


集団学習と集団面接と集団就職
連結された足の車両が通り過ぎていく

 


なぜ歌わないのか と耳のない人たちが説教した

 


閻魔が引き抜くべき耳がある

 


ダンス—―語りえなかった者の歌。

 


聞きとらなかった悲鳴を損害賠償するものとしての書物

 


そして黙殺の荒野に根絶やされた舌
なおも沈黙の腐葉土に種撒かれる耳
湿潤な嗚咽に育まれるたどたどしい草原で
小さな哺乳類が再び唇を交わすまで