愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

「学力」の結晶 (子ども若者表現応援基金 2019年度奨学生発表会 スピーチ)

先日、「2019年度子ども若者表現応援基金」(https://hyogen.thyme.jp/)の発表会がありました。

基金は「不登校経験者や、オルタナティブスクールで学んだ子ども・若者」を対象として、一定の助成金が付与されるものです。

私は幸運にも第一回奨学生に選ばれ、詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』を制作しました。

発表会では15分ほどのスピーチがあり、今回はその内容を掲載します。

「『自由』に生きるための力」こそが「学力」であり、詩集の制作がその結晶であることを訴えています

 

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「学力」の結晶 

2020年2月24日 子ども若者表現応援基金 2019年度奨学生発表会 喜久井ヤシン スピーチ

 

私は今回、詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』を制作させていただきました。

この詩集は、全国各地のオルタナティブ・スクールや、子ども・若者のための居場所を運営する方には、無料で配布することを考えています。

有料でも欲しいという方には、私のブログなどに詳細を載せておりますので、ご覧いただければと思います。

 

これは、小さな詩集ではあります。

そしてこの本のように、私の人生も小さなものでした。

私は八歳の、小学校二年という早い時期からガッコウに行かなくなり、孤立した生活を送ってきました。

一人っ子で、両親も共働きです。

ガッコウ以外に行けるところもなかったので、十代のほとんどの期間を、一人で家にいて過ごしてきたんです。

「ずっと家でゲームをしていた」と言えば、気ままで自由な暮らしを想像する人がいるかもしれませんが、本質的な意味では、まったく「自由」ではありませんでした

プレッシャーにさいなまれていましたし、人目が気になるせいで外出もままならない。

一人きりで家にいるしかないというのは、物事が発展していく可能性がない状態です。

自ら考え、表現し、主張していく力能や機会が得られませんでした。

穏やかな監禁状態のようなもので、人とのつながりの面でも、知的な刺激の面でも、「自由」ではなかったのです。

 

そして、社会的な面でも「自由」ではなかった。

中学にはほとんどかかわらなかったので、私の中学三年間の成績表は、斜線が引かれているだけです。

試験を受けていないので、「偏差値」と言われるものの存在は、噂でしか知りません。

学歴もないですし、自動車免許も含めて、何の資格も持っていません。

私は成績表も履歴書も、全部が白紙になるという半生なんです。

社会的な成功の可能性がないと思われる点でも、「自由」が欠損していたといえます。

 

「自由」……。

この「自由」という言葉はありふれたものですが、実に深い意味をもつものです。

今回詩集を制作している時期に、教育哲学者の苫野一徳さんという方と、お話をする機会がありました。

苫野さんは、教育とは何か、という難しい問いに、一言で、ずばんと答えている方です。

苫野さんいわく、教育とは「すべての子どもたちが『自由』に生きられるための力を育むもの」といいます。

「自由」という言葉がくせものですが、ごくわかりやすくいうと、誰もが「生きたいように生きられる」ことだといいます。

それは、好き勝手に「自分だけが『生きたいように生きる』」ことではありません。

自分だけではなく、相手も、どんな人でも「生きたいように生きたい」と思っており、そのことを認め合い、調節して、お互いの「自由」を作り合っていくことが大事だといいます。

これを「『自由』の相互承認」と言っていますが、ルーツとしては、250年くらい前に思想家のヘーゲルなどが生み出したもので、市民社会や、現代に通じる民主主義社会の原理となる考え方です。

そして元々は、教育の原理になるはずだったものでもあります。

争いのない、平和な世の中をいかに作っていくか。

皆がお互いに認め合う社会にしていくために、「自由」を価値観とした教育のあり方が模索されました。

……しかしご存知のとおり、現実の教育はそうなっているとはいえません。

日本で「教育」といえば、テストが何点だったかとか、有名な大学に入れるかどうかなどの話がされています。

「学力」といえば、クラスの担任教師の言われたとおりにし、決められたテストを皆で同時に受けて、その優劣がどうだったのかという比較のことになっている。

私は今のガッコウの「学力」では、落ちこぼれです。

 

しかし、私の「学力」の転機となったものの一つに、オルタナティブ・スクールがあります。

私は18歳でシューレ大学に入学し、ある程度の期間在籍しました。

そこでは、情報としての知識以上に、「知識を獲得していくための力」が得られたと思います。

今回の詩集にかんして言うなら、「創作」や「文学」の講座によって、直接的に表現を学ぶ機会になりました。

研究をする人だけでなく、絵画や音楽によって表現する人がいましたし、料理や遊びの仕方、または生き方そのものによって、私の人生の模範となった学生もいました。

それらは私自身に「自由」を作り出すものであり、本質的な「学び」であったはずです。

成績表がすべて斜線を引かれていただけの、この小さな人生でも、「学力」はあったんです。

詩を書き始めたこと自体が、シューレ大学での「学び」をきっかけとするものでした。

……最初期に作った詩で一点だけ、「逆上がりのように」という詩を朗読したいと思います。

この詩集の、一番初めに収録した作品でもあります。

子どもだった小学校の頃に、ガッコウに行かないことで親や教育者から非難された、孤独な体験が言葉になっています。

 

 

逆上がりのように
人間ができなかった

下手くそな版画とおなじく
傷ついていびつにできあがった

こいつは優秀じゃなくて 
たぶんいい子でもなくて

それで失格になるってことは 
前からよく聞いていたけど
ここまで てんさく されるだなんて

右にいた子は二重跳びのように
子供でいるのが上手かった
前にいた子は自転車のように
自分に乗って遠くへ行けた

風景は逆さまにゆうれ
 ゆれ

どうすれば軽々とできた
こんなに他人でできているものを

あれほど硬いものにつかまされなければ
僕は僕を歩けただろう
僕は僕を走れただろう
平たい一人分の道を
ただの足によって

訂正される漢字みたいに
こいつには朱色がまわあり
まわり
それがわかればわかるほど 
僕は努力して人間に進ん
 だ
 けど
  人間の方が 

 僕から遠ざかっていってしまった。

 

 

 

……という詩です。

「自由」についての話に戻ります。

苫野さんは、「自由」をわかりやすくいうなら、「生きたいように生きられる」ことだと言いますが、このシューレ大学のある種の標語というのが、そのまま「生きたいように生きる」というものです。

またシューレという言葉自体も、ギリシア語で「精神を自由に使う」という意味だそうで、ここにも「自由」があります。

フリースクール」という言葉自体が「自由学校」を意味するわけですが、その理念と同じく、「自由」の価値は偏在しています。

教育の本質は「『自由』に生きるための力を育む」ものであり、その力のあることを「学力」というべきなんです。

狭い教室の中で、同じ年齢で分けられた同じ学級の中、隣の席の子と優劣を比較することは、「学力」ではありません。

テストの点数に汲々とし、神経をすり減らすことは「学力」ではない。

 

では、何が「学力」か。

今日、ここにあるものがそうであると思います。

私がわざわざ言うことでもないかもしれませんが、今回の発表会は、単に「フトウコウ経験者ががんばって作品を作った」とか、「基金のお金で自己表現を手伝った」という程度のことではないんです。

ここに生み出され、今日みなさんが目にしているものは、本当の意味での「学力」の結晶であり、「自由」の結晶なんです。

「喩えとして学力ともいえる」とか、「学力の一種である」ということでもありません。

これが、「学力」なんです。

そう言われるべき価値があり、本質的な意味での「学び」の成果だと思うんです。

これらは「自由」を表明するものでもあります。

個人の「自由」の表明によって、多くの人に届き、他の誰かの「自由」にも影響を与えるはずです。

そして、大きくはこの日本社会の「自由」のあり方にも寄与するはずのものです。

 

私の作ったこの小さな詩集も、たかが一冊の、小さな本にすぎませんが、これでも、私なりの「自由」の結晶であり、そしてどこかにいる、他の誰かの「自由」を創造するものであるかもしれないんです。

これは私のような小さな人間の、成績表も履歴書も全部がまっ白だったという人間にとっての、「学力」の物証であり、「自由」の宣言となるものです。

 

このような機会を与えていただき、ありがとうございました。

 

 

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