愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【諷刺家ファイル】ノーベル文学賞記念 オーストリアの作家たち ペーター・ハントケ/トーマス・ベルンハルト/カール・クラウス

 先日ノーベル文学賞が発表され、2019年の受賞者にオーストリアのペーター・ハントケが選ばれた。

 せっかくなので、今回は趣味で記録している「諷刺家備忘録」の一環として、オーストリアの作家たちをとりあげる。ペーター・ハントケ、トーマス・ベルンハルト、カール・クラウスの3名で、いずれも常人にはない辛辣な言葉を残した文学者たちだ。しかも全員が自国批判を何らかのかたちで書いている。2004年のノーベル文学賞作家のイェリネクもそうで、このような作家たちを生み出すオーストリアの謎の国柄を尊敬する。それにしても、保守派の人々にとっては実に苦々しい文学的な栄光だろう。

 


諷刺家ファイル No.31 ペーター・ハントケ

反復

 1942年オーストリア生まれ。破天荒な戯曲「観客罵倒」など、常識外の創造性と冷徹な博識で、独自の作品群を残す作家。現世になじめない天涯孤独な男の、屈することのない闘志が作品の言葉となる。書くたびに敵が増える攻撃的精神が、沈黙の岩盤をうがち、批判対象(と時には自分自身)を貫く。


僕は人生の中で、自分が安全なところにいるという気がしたことなんかない。
(「反復」)

人間たちを知ってからは、犬が好きになった。
(「幸せではないが、もういい」)

酔っぱらいは饒舌になるのではなく、ただいっそう無口になるしかなかった。
(同上)

子供が子供だったころ
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり
魂はひとつと思っていた
(映画「ベルリン・天使の詩」モノローグ)

 

 作品においても言動においても攻撃的な作家だった。文学者たちが集まった講演会場で、若かりし日のペーター・ハントケが手を上げ、壇上の作家たちへの酷評を繰り広げたという逸話が象徴的だ。新しい表現を求めて、古い時代の文芸を一新させるための怒りを持っていた。戯曲の『観客罵倒』にしても、新時代のための演劇論や文学論を訴えた知的な内容となっている。戯曲の『私たちがたがいをなにも知らなかった時』はセリフが一切なく、舞台上を多くの人々が歩くなかで、身振りや視線によって物語が生じる。私は脚本を読んだだけだが、高度に刺激のある豊かな舞台が想像された。いくつもの映画の仕事がそうであったように、文芸上の試みを越境した身体的・視覚的な表現に踏み込んだ作家という印象がある。

 


諷刺家ファイルNo.21 トーマス・ベルンハルト 

消去 【新装版】

(Thomas Bernhard 1931―1989)。代表作の『消去』は、自らがこの世に在ることへの明確な憎悪をもって、言葉の裁断機で世界の輪郭線を切り替える一世一代の大作となっている。否定、叱責、罵倒の圧力をかけ、自国オーストリアや故郷ザルツブルクへの怨恨を隠さない。それでもなおベルンハルトの読書に熱中させられるのは、狂人の主観で描いた短編「ふちなし帽」のように、その文章が極度のユーモアを多量に含んでいるためだ。

 今年の1月に「凍(いて)」、9月に「イムラス」が出ており、さらに11月にも「破壊者」の翻訳出版が予定されている。日本においても根強い求心力を持った作家だ。

どの星もぼくには警官
天空が行進する、大洋が行進する
警棒の海、制服を着た畜生!
狂気がぼくの囚人旗を真っ赤に染める

(詩「死の刻に」)

教師なんぞは、謝った教えと混乱と破滅をもたらすしか能のない連中だ。子どもを学校にやるのは、毎日そこらで出会うろくでなしにしてもらうためなのだ。

(「子供」)

 

『消去』(1986年)は2004年に翻訳出版されていたが、2016年に新装版が出ている。以下のように、全編にわたって存在への嫌悪を書き連ねた大著だ。

 

生涯にわたって私を苦しめつづけ、私の呼吸の仕方さえ妬みの対象にしてきた妹たちについての私の本音はすさまじいものだが、私はそう考えるのをためらったことは一度もない、と言っておかなければならない。妹たちの側から私に向けられた、ありとあらゆる卑劣な言動やいじめについてここで沈黙したとすれば、私はひどい偽りを犯したと言う自責の念に苦しめられることだろう。沈黙するのは妹達のやったことに照らして妥当でないし、また私自身についてみても妥当ではない。

私たちが憎むのはだ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけはしずめなければならなかった。

 

 自伝5部作のうちの第一作となる『原因 一つの示唆』では、ベルンハルトの子供時代が描かれており、酷薄な精神が発揮されているが、中でも学校教育や養育者への批判が強い。私個人としても教育には消えることのない怨恨があるので、以下は生涯に残るヘドロのような情念を再び眼前に晒すような文章だった。長めの抜粋をさせていただく。

 

私たちの生産者つまり親は、まったくの無知、まったくの卑劣さから、この世に私たちを生み落とすが、ひとたび私たちが存在するようになると、どう扱ったらいいのか分からず、うまくあしらおうとする試みは、すべて失敗する。彼らは早々に匙を投げるけれど、それでも、いつも遅すぎる。いつも、私たちをとっくに破壊し終わってから、ようやくやめることになる。最初の三年は、人生における決定的な時期なのだが(生産者である親は、そのことをまったく知らず、知ろうともせず、知ることもできない。何百年ものあいだ、彼らを恐ろしい無知のままにしておくため、絶えずあらゆる処置が講じられてきたのだから)、この決定的時期に生産者は私たちを、彼らの無知ゆえに壊し、駄目にし、そのあとの全生涯に渡って破壊し、台無しにしてしまうのだ。

教授たちは腐敗した社会、根本においてひたすら反精神的な社会の具現者に過ぎず、それゆえ同様に腐敗していて反精神的だったし、生徒らもまったく同じ、腐敗した反精神的人間として、大人になるよう仕向けられていた。

そして鈍感な者または病気の者、鈍感でかつ病気の者、それがギムナジウムの教授なのであった。なぜなら、彼らが毎日犠牲者たちの頭に注ぎかけるもの、すなわち彼らが教えるものとは、鈍感であり病気であって、実のところ、数世紀もの古さの、腐った精神の病としての教材であり、この教材の中で一人一人の生徒の思考は、窒息せざるを得ないのだ。学校において、特に中等教育を施す学校において生徒の中に絶えず詰め込まれる、腐った、役に立たない知識は、彼らの生来の自然を非自然へと変質させる。そして私たちがいわゆる中等学校の生徒と関わりになるとき、私たちが関わっているその生徒とは、生来の自然をこのいわゆる中等学校で完膚なきまでに打ちのめされて、不自然な人間となった生徒なのである。いわゆる中等学校、中でもギムナジウムと呼ばれる学校は、本来いつも、人間の持って生まれた自然を打ちのめすことにしか寄与してこなかったのであり、今、どうしたらこの自然を根こそぎにする中心機関を廃絶できるか、考えてみるべき時が来ているのだ。

  私は笑いたいときには笑えるものを見たいと思う。楽しみたいときには楽しめるものを味わいたいと思う。では怒りと汚辱にまみれて、この世の辛苦に打ちひしがれているときはどうしたらいいか。私はトーマス・ベルンハルトを読む。

 


諷刺家ファイルNo.6 カール・クラウス

カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり (講談社学術文庫)

(Karl Kraus 1874-1936)ユダヤ人の作家・ジャーナリスト。大戦前の抑圧を強める社会にあって、雑誌「炬火」で表現の火を守り続け、権力に抗う闘争をした。クラウスの存在はモラリストをはじめとした後世のヨーロッパの作家たちに多大な影響を与えている。ドイツ文学者の池内紀氏(今年の8月に亡くなられた)による『カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり』は、オーストリアおよび戦火が迫りくる一時代を描き出す労作だった。
 『第三のワルプルギス』などを始めとして時代批評が持ち味だったため、現代の日本の一読者としてはわかりにくいものも多い。しかし現代でも抜群の面白さを持つのが『アフォリズム』で、批評眼とユーモアのこもった警句を展開している。

 

 以下に『アフォリズム』からの言葉を10点ほど拝借して、今回の備忘録を終える。

 

人間をこれ以上悪に染められぬと思うは、悪魔もとんだオプティミストだ。

今日、オリジナルとは最初に盗んだものの謂である。

すべての芸術鑑賞には、前もって警告がなされているべきであろう。どうかお手を触れないで下さいと。

詩心をうながすものは芸術的雰囲気ではない。機械的生活である。

読書中の詩人――食事中の料理人。

才気は応々にして性格の不備による。

最近流行の衣服より判断するに、女はどうやら鰓(えら)で呼吸しているらしい。 

医術――ハイ、お金。ホラ、生命(いのち)!

個性のひとは権利としてあれこれ迷うのに対し、俗人はまかりまちがって正解を述べかねない。

二十年間、くる日もくる日も一つの会社の一つの椅子に腰を落ち着けてきたひとの、何と変転多い生涯であろうことか!

 

 

    参照

ペーター・ハントケ『反復』阿部卓也訳 同学社 1995年
ペーター ハントケ『幸せではないが、もういい』元吉瑞枝訳 同学社 2002年
トーマス・ベルンハルト 『消去』 上・下 池田信雄訳 みすず書房 2004年
トーマス ベルンハルト 『原因―一つの示唆』 今井敦松籟社 2017年
カール・クラウス著作集〈5〉アフォリズム法政大学出版局 1978年