先日、「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」を鑑賞した。名古屋に一泊し、愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、豊田氏美術館と、四間道・円頓寺といった主要な会場を周遊。トリエンナーレにふさわしい現代アートの祭典であり、先端的な刺激に満ちていた。名古屋駅周辺の会場は、歩いて回るには遠すぎ、電車移動には近すぎる微妙な距離だったが、その不便さの体験も含めて旅の記憶となるもので、日常から離れる悠々とした時間を過ごすことができた。
愛知芸術文化センターは、今展の中心的な会場となるもので、巨大な作品をどっしりと受け止めながら、高級感のある洗練された建築を誇る展示空間だった。いくつかの作品は、メッセージとしては社会への異議申し立てを含みながらも、華やかな「インスタ栄え」向きのとっつきやすさがあり、何人もの鑑賞者がスマホのカメラ音を出しながら歩き回っていた。
以下には、「あいちトリエンナーレ2019」で個人的に最も記録すべきだと思った空間の写真数点を載せる。つまり、「表現の不自由展・その後」展示中止にともなう非インスタレーション、および美術館の物理的な意味での壁である。
きわだって諷刺的な作品だったのは、バルテレミ・トグォの「西洋のゴミ箱」だった。名古屋市美術館の周辺に点在するゴミ箱に、アフリカ諸国の国旗がプリントされたビニールのゴミ袋が使われている。これがもし「日本のゴミ箱」のタイトルで、韓国国旗を含むアジア諸国の国旗がプリントされ、通行人が実際にゴミを捨てられる参加型の作品であったならどうか。風によれてくたびれたビニール袋のチープな存在に、歴史問題の深淵を覗かせる「穴」がぽっかりとあいている危険な展示物だ。
また、藤井光による出色の映像作品は、過去の日本の植民地支配時代を実録のフィルムとともに鑑賞させるもので、歴史認識の射程を伸ばさせる、力のある展示空間を作り出していた。それは一人の少女が椅子に座っている、という安穏さとは完全に別種の、はるかに現代アート的な試みに満ちた切れ味を持つものだった。
パンフレットに掲示された名古屋市美術館の標語は、「私たちの社会を不寛容から救うために」という皮肉な文言となっている。不自由展の中止は、今展に影を落としている……どころではなく、何人ものアーティストたちの展示拒否が示すように、はっきりとした傷になっている。私が思うに、今回の事件は「あいちトリエンナーレ」の100以上あるプログラムの内のたかが一つが中止に追い込まれた、という小さな出来事ではない。現代の日本ではっきりと「自由」がおびやかされ、特に韓国に対する攻撃性があらわになった、現代を象徴する事件だった。今回のことが止められない無力さは、戦争が止められない無力さの事態と地続きにある。そのうえ安倍政権の支持率がここにきて上がっている、という、私には理解できない(、のではなく正確には理解したくない)情勢が、胸糞の悪い、臓腑から意気消沈させるような落胆を引き起こしている。
どうすればいいのか・どうあればいいのか、という苦渋の問いに対しては、あいちトリエンナーレ開幕前から用意されていた津田大介氏の挨拶文がすでに解答となっている。『いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。』
「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」は、攻撃的な「情」を打ち破ることができたのか。今展に対する私の最終的な印象として、以下に美術館内の写真を提示し個人的な旅を終える。
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