愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【コラム】読書の真骨頂 「ネトウヨ」に読書家はいない

 書店へ行くと、「マンガでわかる」とか「一日〇分で身に着く」とか、即効性を売りにした本がベストセラーの棚に並んでいる。効率的な情報処理は時代の要請でもあるだろうし、私自身がその手の本のお世話になったこともある。けれど本を開き、文字を追い、自身に言葉を受け入れていく時間の中には、合理性や理解力だけでは計れない営為があるように思う。

 作家の古井由吉氏の考えでは、読書は「楽しさ」以上に、「なんとなく嫌な感じ」がするところに醍醐味がある(※1)。「わかりやすくてスラスラ読める」とか、「面白くてページをめくる手が止められない」とかではない。むしろ、作者の使っている言葉が自分とは異なっているせいで、うまく読み進めることができない。そこに読書の価値がある。

 特に文藝書や思想書で出会うと思うけれど、書物は時に自分の精神と敵対する。一つ一つの単語を理解できても、文脈に違和感を感じて、一度めくったページをまた戻り、あらためて読みなおすものの、言葉が異物になってしまい、場合によっては文章に対する嫌悪感まで生じてくる——。そんな苦労する読書が、他の人への想像力を養うとか、多様なあり方を受け入れるとかといった、読書の効能にもなるのだと思う。

 悩み、葛藤し、自問自答して、ようやく腑に落ちる一つ二つの言葉から、これまでにない思考が自分の精神の脈拍の中を流れていく。読む前と後とでは、自分が変わらざるをえない言語との契り——。娯楽ではなくむしろ不快の経験に、読書の真骨頂がある。

 

 本を何百冊も読む人は「読書家」と言われるけれど、自分にとって都合の良い内容の本だけを読んでいるなら、本質的には「読書家」ではないかもしれない。たとえば「ネトウヨ」が大量の本を読んでいたとしても、政治的に同意できるものしか認めていないなら、深い読書にはなっていないように思う。書物によって現実を直視し、異物を飲む読み込みのできる人を、私は「読書家」として尊敬する。

 

 経済の価値観によって、教育現場で理系の知性が重視されるようになっている。大学受験の選考方法でも、文章の読解力や文学的な感性が軽視されるようになった。けれど読書の神髄が他者への受容を生むなら、この教育方針は次世代の一端に頑迷さを宿すことになる。苦渋の読書に自ら没頭する「読書家」が多くいてくれたなら、生産性では測りえないものによって、日本の本質的な豊かさは増すだろうと思う。

 

 

※1 佐々木中著 『切りとれ、あの祈る手を』 河出書房新社 2010年 30p
『古井さんは続けてもうひとつ、こちらとしてはもう恐れ入ってしまう様な事を仰っていて、要するに読んでいてちっとも頭に入らなくて「なんとなく嫌な感じ」がするということこそが「読書の醍醐味」であって、読んでいて感銘を受けてもすぐ忘れてしまうのは、「自然な自己防衛」だと言うんです。だから読み終えると忘れてしまうし、ゆえに繰り返し読むのだ、とね。』

 ご覧いただきありがとうございました。

 

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