愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【本】失われた〈物語り〉を求めて 中動態から見る「教育マイノリティの世界」⑤

中動態から見る「教育マイノリティの世界」/國分功一郎著『中動態の世界』読書メモ⑤ 

『中動態の世界』は、マイノリティの言葉の不自由さについての記述から始まる。学究的な分厚い本のプロローグが、語れないことへの嘆きから始まることに、あらためて注目したいと思う。私がこの本を読んだのも、今思えば言語学的・哲学的な興味以上に、自分を物語るための言葉の方法を探していたためだった。言葉をめぐる読書は、ナラティブ(物語り)のための武器になる。少なくとも、武器を作るための重要な素材になる。今回(最終回)は『中動態の世界』で見つけたアイテムを見ていく。


  武器の素材1 北海道方言「ガッコウに行かさらない」

不登校新聞』のインタビューは、「行かさらない」という表現について語ることから始まる。

futoko.publishers.fm

『「行かさらない」を標準語にあてはめれば「行かない」になりますが、まったくちがったニュアンスになります。「行かさらない」という言葉には「意図したわけではないが、状況のせいでそうなってしまう」という意味合いが含まれているからです。』

 北海道方言の「~(ら)さる」・「~(ら)さらない」という言い方が、「~する」・「~しない」に対応している。けれど標準語に比べて、この方言ははるかに中動態っぽい。

 言葉への言及を受けて、『不登校新聞』では「不登校は『学校に行かさらない』が最適表現説」の記事が出された。北海道で居場所支援をおこなっている相馬契太さんによって、以下のように説明されている。

 『否定形は「~(ら)さらない」で、「したいと思っているのに、状況が悪くなぜかそうならない」という意味になる。ボールペンのインクが出ないときは「このペン、書けない」ではなく「このペン、書かさらない」となる。「うまくいかないのは自分が悪いのではなく、対象物が悪い」という意味を含むので、人を責めずにすんで、使い勝手がいい。
 これを応用すると、「学校に行けない」は「学校に行かさらない」。「学校に行った」は「学校に行かさった」。これなら行っても行かなくても、どちらも「うっかり、たまたま、そんな気はなかったんだけど」というぐあいになる。』

 これなら、能動か受動かでは語れない、「不登校」状態(、ひろくはマイノリティの体験)が言葉になるという感触が得られる。
 もしも周囲の人が、私がガッコウに「行かない」・「行けない」でなく、私がガッコウに「行かさらない」という言い方をしていたらどうか。これだけで私の半生に根づく悔恨が、どれほど軽度になっていたかわからない。標準語もこのような表現が可能であってほしかった。


  武器の素材2 動詞の起源「不登校が私に生じる」

 日本語で語ることのできない言葉の例としてもう一つ、ラテン語の非人称が武器素材になる。
 著者は、動詞の歴史の中で、人称の概念が遅れて発生したことを述べる。現代だと、「出来事」に対して「誰」がそれをやったのかという、一人称やら二人称やらに分類される文法で言葉ができている。けれど動詞の起源を調べたところ、元々は「出来事」に対して「誰」と指示していない。いくつかの分類の中で非人称があったのではなく、先に非人称があって単人称の動詞が生まれてきた。(※この「出来事」「誰」の言い方は筆者によるもので、極めてざっくりしています。)

 『動詞はもともと、行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた。』(p171)という一節から、『「私に悔いが生じる」から「私が悔いる」へ』小見出しがあり、以下の説明がある。

 『たとえば、「私が自らの過ちを悔いる」と述べたいとき、ラテン語には非人称の動詞を用いた “mepaenitet”という表現があるが、これは文字通りには「私の過ちに関して、私に悔いが生じる」と翻訳できる(私に悔いが生じるのではなくて、悔いが私に生ずるのだから、これは「悔い」なるものを表現するうえで実に的確な言い回しと言わねばならない)。』

 けれどこの動詞が、歴史を下って一人称になり、paeniteo(私が悔いる)という形態になる。今では非人称は三人称にあたるもので、一人称、二人称に次ぐ三番目みたいな印象を受けるが、本来は三男坊でなく文法の父親にあたる。著者も三人称という言葉の語弊を指摘している。

 動詞の起源においては、(「不登校」という苦渋の言葉を使うのであれば)「私は不登校だ」ではなく、「不登校が私に生じる」という的確な言い回しが生まれる。私は「不登校」の語を、個人ではなく社会的なシステムの言葉としてとらえたい。なので「私が」問題とするようなとらえ方でなく、問題が「私に」生じていると見なさねばならないと思っている。

 つけ加えるなら、私は「不登校する」とか「不登校した」とかいう動詞の使い方がなくなればよいと思っている。今のままだと、大きな社会の問題を一人の個人の問題のように扱えてしまう。他のマイノリティで、自分のことを「LGBTする」とか「在日コリアンした」とか言わないだろう。一人称でなく非人称に限定した言葉がいる。(「教育マイノリティ」という言い方なら、「教育マイノリティする」という動詞の予防効果もある。)


  武器の素材3 与格構文「私にガッコウがやってこない」


 『中動態の世界』からは離れるけれど、非人称に関して個人的に注目した点で、「私に~」という言い方がある。よく知らないけれど、文法的には与格構文というものらしく、ここにナラティブ武器製造のヒントがある。 学者の中島岳志氏(ちなみに國分さんと同じ東工大の教授)の発言に以下がある。

ヒンディー語には与格構文という構文があります。たとえば日本語で「私はあなたを愛している」と言ったとき、主語は「私は」です。ヒンディー語ではまず、「私に」から始まります。「私に、あなたへの愛が宿った」という言い方をするのです。言葉に所有されている。「私はヒンディー語を話すことができる」でなく「私にヒンディー語がやってきてとどまっている」になる。私が主体でなく、「私」という器に言葉がやってきてとどまっている、と考える。』中島岳志若松英輔著『現代の超克』ミシマ社 2014年 p149)

 自然な言葉として「私は~」ではなく、「私に~」がある。なんて希望を与えてくれる言語だろうか。これでいけば、「私は不登校だ」という言い方を不能にさせられる。
 「私はガッコウに行かない」という能動やら動詞やらが前景化する言い方でなく、「私にガッコウがやってこない」という言い方も可能なのだろうか。だとしたら、「私が」ガッコウに行けないのではなく、「ガッコウ」の方が私にやってこないという主体の逆転まで起こる。言語上の逆襲が起きている。そして、私はこれこそが的確な表現だと思われる。教育マイノリティとは、子供個人が巨大なガッコウ制度に属せないという問題ではない。狭小で単一なガッコウ制度が、膨大で多様な子供たちに属せないという問題だと思う。


 「私は不登校だ」も、「私は不登校した」もない。「私に~」という言い方なら、「私に不登校がある」「私に不登校がやってきた」といった、個人の意志を問わない言葉になる。与格構文を標準語に組み込めれば、現代日本語でのナラティヴをも可能にするかもしれない。

 しかも日本語は成り立ちとして、主体性や能動性に無頓着な言語ではなかったか。たとえば何気ない「〇〇が出来る」という言い方がある。意味合いとしては、自分の力で達成するというようなもので、主体や能動の概念が出てきやすい。けれどこの言葉の成り立ちは、漢字からして「出で来る」というもので、自分が「行く」のではなく、向こうから生まれ出て「来る」ものとしてある。「私が」意志を持って能動的に行う、という以外の語り方が、日本語でも出来るんじゃないか。


   おわりに

 『中動態の世界』読書メモをこれで終える。
 私はマイノリティの内実を、社会に訴え主張していけたならよいと思ってはいる。けれど訴える以前に、そもそも使える言葉がないという苦渋の体感がある。無理やりに絞り出した言葉は意味が欠けていて、語られることのない自分の内景はあまりにも広大で。巨大な沈黙を抱え込みながら暮らしていくと、言葉の武器で闘うことに希望をなくしてしまう。けれど本書のような一冊と出会うと、言語の考古学、外国語、および未来に、言葉の可能性はまだまだ発見できると思い出させてくれる。日本語にしても、私のナラティブとなる武器は、現代の能動態や主体性の山に埋もれて見えなくなっているだけかもしれない。突如言葉が息を吹き返し、古代の地層から目覚めることだってありうると思わせる。『中動態の世界 意志と責任の考古学』は、物語るための言葉の武器を探す、道筋とたくましさと、そして希望を与えてくれるものだった。
 

 

 ご覧いただきありがとうございました。

 

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