愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【本】中動態から見る「教育マイノリティの世界」  國分功一郎著『中動態の世界』読書メモ①

 2018年8月15日、「不登校新聞」で哲学者・國分功一郎さんのインタビューが公開された。私も編集に関わった記事で、著書の『中動態の世界』を中心に語られている。 

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 マイノリティには、世の中のマジョリティの人々とは「言葉が違う」ような経験がある。教育マイノリティ(不登校)がガッコウに「行きたいけど行けない」、あの感覚もその一つだ。同じ言語を使っているにもかかわらず、状態が理解されない。「中動態」には、その言葉の分断をひもとくヒントがある。
 この機会に、中動態から見た《教育マイノリティの世界》を探ってみたい。 國分功一郎著『中動態の世界』(医学書院 2017年)の、個人的な読書メモである。

 

   そもそも「中動態」とは?

 現代では、物事を「能動態」か「受動態」かで分ける見方が一般的になっている。しかし数千年前には、インド=ヨーロッパ語にどちらでもない「中動態」が存在していた。

 「中動態」というと能動と受動の中間にあるような印象を与えるが、その意味ではこの名称は不正確だ。「中動態」の語は紀元前一世紀の文法研究が由来となっており、それはすでに中動態が表舞台から追いやられたあとの時代だった。(73p)

 比較言語学の考古学的作業は、インド=ヨーロッパ語に元々あったのが能動態と受動態の対立ではなく、能動態と中動態の対立であったことを教えている。『すでに古代ギリシア語においても、もはや能動態と中動態の間に対立はなく、対立は能動態と受動態の間にある。それゆえ、中動態は言語学者たちが扱いに困る一種の過去の遺物になった。』ギリシア文明史家のジャン=ピエール・ヴェルナンは言う。(102p)

 著者によると現代では、『能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに配分することを求める。』(p21)。しかしそれだけでは記述が不正確になることがよくある。普段の日常生活の中でも、どっちかはっきりしないものがたくさんある。

 たとえば(私的に出す例で)「眠る」ということ一つとっても、「私は眠る」と言えばなんとなく意志を持って選んでいるように思えるが、自分で完全に選べることではない。ベッドの中でいつのまにか眠りにつくもので、起きていようとしたのに寝落ちすることもある。これは能動といえるのか。
 もう少し行為らしいものでも、能動態はあやしい。「歩く」ことも本当に能動なのかどうか。『「私が歩く」という文が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった。』(20p)
 厳密に見ていくと能動じゃないように思われる。けれど、かといって「眠る」や「歩く」が受動だともいえない。現代では能動と受動のどっちかみたいに分けられているが、中動態を知ることでわかりやすくなるものがある。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 哲学史においても、スピノザの「エチカ」は哲学者にとっても難解なものとされてきたが、能動か受動かでない、「中動態的存在論」として理解することで見通しが良くなる。(240p)
 私は全然知らなかったが、言語学者達の論考をはじめ森田亜紀『芸術の中動態』(萌書房 2013)などで中動態が取り上げられており、研究は進んでいた。また『現代詩手帖』2018年3・4月号には岩成達也『中動相についての覚書(上下)』のエッセイがあり、中動態から詩的表現の分析をおこなっている。

    つづく

 

 ⇐第②回

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