愛さないことにかけては世界の方が上手

詩人・ライターの喜久井伸哉(きくい しんや)による愚文集

【コラム】「ひきこもり」とセクシャルマイノリティ③ 映画『恋に落ちたシェイクスピア』について他 

先月のことですが、「ひきポス」で「『ひきこもり』とセクシャルマイノリティ①」の記事がアップされました。第二回は6月18日(月)更新予定です。公開にあたってはいくつかの文節を削っており、断片的なものになりますが、この機会に削除した箇所を掲載します。

 

   「ひきこもり」とセクシャルマイノリティ③ 

 

 むかしむかしあるところに……と語るおとぎばなしには、世の中の正しさを伝えるイデオロギーが含まれているという。おはなしの多くに似通った構図があり、アウトサイダーの男の子が勇敢に冒険し、困難を乗り越えお姫様と結婚することで、物語の国のシステムの中に入ることを祝福される。つまり「めでたしめでたし」になるためには結婚することが幸せで、あなたのハッピーエンドはそれしかないということを、おとぎばなしとして、寝つかせる時の読み聞かせなどなどから伝える機能がある。
 男女の結婚によって社会のシステムへと入っていくところに「めでたしめでたし」になるだけの幸せがあるという話は、もちろん昔話でない現在の物語にも、小説やドラマのかたちで日常的に刷りこみがおこなわれている。


 DVDショップに行けば、「アクション」や「ドキュメンタリー」などと並んで、どうということはない「ラブストーリー」のコーナーがあり、カッコいい男性とカワイイ女性が出会って恋をする、ありふれたたくさんの物語が売られている。壁一面が、びっしりと、異性愛であり理想的な性的イメージを伝える役者たちで埋めつくされていて、――私はそこで立ち止まらされるような威圧を感じないふりをしているけれども――男性や女性がどうあるべきかを無言で教育してくれている。昨年アカデミー作品賞をとった『ムーンライト』などのように、同性愛を主題にした例外があるにしても、それらはごくわずかにすぎない。

 

 さらに細かく言うなら、男女の恋愛を描いた映画のなかでさらに、ささやかで目立たない、そして私にとって深刻なものが含まれている例もある。よくできている作品で、『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)という、ヒットしいくつもの賞をとった恋愛映画がある。偉大な男性作家のシェイクスピアが女優と恋をし、詩才を活かして愛のこもった言葉を女性に向けて贈る。華麗な美術セットに、スピーディなストーリー展開の、面白い作品だけれど、私にとってはそれだけのお話ではすまない。
 まず、シェイクスピアは同性愛者だった人で、伝記をひもといてみても、女性との恋愛はまずなかったということが一つ。それに映画のなかで女性への恋文としてつづられていた詩の言葉は、本来男性美を讃えるソネットの一節で、「彼」の美しさを讃えるための恋文だった。もし異性愛だった著名人のエピソードまるごとを、同性愛の内容へと無断で――ただそれが売れるからという商業主義の理由だけで――転じていたなら、大きな批判が起こるだろう。

 

 このようなセクシャリティの消去の仕方、言われなければ気づきもしないような改竄(かいざん)は、詩人ハーフィズの翻訳書や、『万葉集』の同性への恋文を異性宛てのものするちょっとした解説文など、目につくところで度々起きている。気にかけることのないマジョリティのセクシャリティである人たちは、ただのラブストーリーや詩の一節として、ありきたりな異性愛の話として平然と味わえるだろう。けれど何が表現されているかだけではなく、消されたもの、書かれなかったもの、伝えられなかったものの見えない墓標の量に気づいてしまう時、それらありきたりなものはガラスの段差となって私を疲れさせる。私は慢性的に墓地を歩かされる。その上で、社会的にふつうであることを目指すなら、マジョリティの人たちと並んで歩きつつ、平然と微笑できるふりをしていなければならない。

 

 

「『ひきこもり』とセクシャルマイノリティ」のテーマは、8月発売の「ひきポス」第3号の冊子にも掲載予定です。機会ありましたらお手元にどうぞ。